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ドラクエ開発時に参考にできた要素について

はじめに

このページは、以前書いた「 ドラクエ以前の国内パソコンゲーム 」 の補足です。

ネット上でドラゴンクエストについて調べていたら「それ以前の国産パソコンRPGの影響なんて全く受けていなかった」と考えている人もいることに気づきました。例えば、ウィザードリィとウルティマだけから作られたかのように言う人や、ドラクエの様々な要素が全てはじめてだったかのように言う人などです。

しかし、ドラゴンクエストの開発当時、開発者たちの目の前に存在していた国産パソコンRPGがどのようなものだったかを考えると、影響が全くなかったということはありえないと個人的には思っています。

ウィザードリィやウルティマにはないドラクエ独自のものだと言われている要素の多くは、実際には当時のPCゲームですでに採用されていたものでもあるのです。

海外RPGと大きく異なる日本人向けの要素には、戦闘時の独特な雰囲気の日本語メッセージやカラフルな絵で表現されたマップ画像などがあります。また、ネット上で初代ドラクエの特徴だと言われているもののうち、かなり多くの要素が、それ以前のゲームでも採用されていました。 これらの要素を中心に、当時の国内外のRPGがどのような状況だったのかをまとめてみました。

なお、このページはかなり長文です。全体の概要は下記のリンク先で閲覧できます。

今まで調べた内容を短くまとめて、初代ドラクエを紹介する文章を書きました。ぜひ読んでみてください。

関連して書いた文章の一覧は下記のリンク先にあります。


目次


国産RPGの戦闘メッセージ

海外のゲームの戦闘メッセージは当然英語ですから、日本語の戦闘メッセージは国産RPG特有のものです。 そこで、日本でRPGが開発されはじめたころのRPGである「ダンジョン」「ぱのらま島」「ブラックオニキス」「夢幻の心臓」の戦闘メッセージをまとめ、その下に、「夢幻の心臓II」(初代ドラクエの開発が始まった時期に発売されたRPG)と「ドラゴンクエスト」のものを加えて整理してみました。

※以下の戦闘メッセージの変遷の表を閲覧する際には下記の点に注意してください。

国産RPGの戦闘メッセージ

ドラゴンクエストで使われている戦闘メッセージのうち、ダメージを「受けた」「与えた」という表現は、ダンジョンやブラックオニキスなどの初期の国産RPGですでに使われていました。一方、敵出現時や報酬獲得時については、初期のRPGでは「出た」「いるぞ」「近づいてきた」「見つけた」「残していった」など、様々な表現がなされていました。

ドラゴンクエストで使われている「現れた」「手に入れた」のような表現は、初代「夢幻の心臓」を経て「夢幻の心臓II」で見られるようになりました。同じ会社が開発した「リザード」でも同様の表現が使われていたので、これらの表現はクリスタルソフト(XTAL SOFT)がよく使っていた表現と言っていいと思います。

さらに、「夢幻の心臓II」のラスボス戦では2戦目に入るときに「まじんが しょうたいを あらわした」というメッセージが表示されますが、ドラゴンクエストでは同様のシーンで「りゅうおうが しょうたいを あらわした!!」と表示されます。このあたりの表現の一致も、ドラクエが夢幻の心臓IIのパクリと言われてしまうひとつの理由になっているのかもしれません。

もちろん、これらはありふれた表現なので、ドラゴンクエストがこれらのゲームからどこまで影響をうけているのかはわかりません。しかし、少なくとも、国産RPGの黎明期のころは敵遭遇時の日本語メッセージなどをいちから全部独自に考え出さなければならなかったのに対し、ドラゴンクエストの開発時期には、たくさんの事例が目の前にあるなかで決めていくことができる時代になっていました。

※なお、その後いろいろと調べてみたところ、詳細まではわかりませんが、「○○があらわれた!!」という表現はMZ-700用のゲーム「徳川家康 1 少年編」(ウスヰパソコンセンター,1983)でも使われていたようです。

ちなみに、クリスタルソフトはドラゴンクエストIIに非常に良く似た「クリムゾン」というゲームを1987年11月に発売していて、このゲームでは、ゲームオーバー時に「あわれな しかばねは こうやにさらされた!」というメッセージが表示されていました。一方、ドラゴンクエストで有名な表現に、死体を調べたときの「ただの しかばねのようだ。」というメッセージがありますが、最初にこれが採用されたのは1988年2月発売の「ドラゴンクエストIII」からのようです(FC版ドラクエIIや初代で「しかばね」という単語が使われていたかどうかは確認していません。もし使われているようでしたらすいません)。少なくとも、クリスタルソフトとドラゴンクエストの開発者の言語センスがとても似ているということは言えそうです。

経験値という表現

上でとりあげなかった「経験値」という表現について論じたページが公開されていたので紹介します。

【徹底検証】ドラクエのせいで日本語が変わったってホント? やる夫と学ぶ「経験値」という言葉の変遷

初代「夢幻の心臓」あたりから使われはじめ、国産PCゲームの世界で普及していたRPG的な意味での「経験値」という表現が、「ハイドライド・スペシャル」の説明書や「ドラゴンクエスト」によってファミコンゲームの世界へと伝わり、それらを通じて一般社会へと普及していく様子が紹介されています。ドラクエの開発者が使い慣れていたと思われる「経験ポイント」の表現を使いながらさらに1文字減らすことも可能だったにもかかわらず「経験値」という表現が使われたことも、明文化されてはいませんが例示されています。これもドラクエが当時の国産PCゲームの影響を確実に受けていたことを示す一例だろうと思います。

自分が一連の文章を書くきっかけになった記事が載ったサイトで、しかもこのタイトルだったのでとても心配したのですが、内容は自分なんかよりも綿密な調査をしたうえで書かれた非常に興味深く価値のある記事だと思います。

それにしてもなんでこんなタイトルなんだろうと思ってたんですが、著者のtwitterを見たところ最初は違うタイトルだったようです。経緯はわかりませんが、良い記事だけにこのタイトルは個人的にとても残念に思います。あと、ドラクエだけが原因だったかのようにも読めてしまうところは少しだけ気になりました。PCゲームの世界も日本社会の一部なわけですし、そこからのルートが完全にゼロだったとも言えないと思いますので。タイトルが誤解を与えやすいですが、実際には「ドラクエをはじめとしたゲーム文化の影響」ということなんだろうと思います。

ちなみに、RPGでの「経験値」という表現は、ドラクエが開発されている時期のPCゲーマーの間では、ほぼ定着していたと言っていいように思います。説明書で「経験値」が使われていた「ハイドライド」は当時大ヒットしていましたし、雑誌に頻繁に掲載されていた「ハイドライドII」の広告の画面説明にも載っていました。上のリンク先の記事でも「日本のパソコンゲームでは、1984年から85年くらいの間に、「経験値」が一気に広まった感じ」と書かれています。

当時の雑誌での使われ方を把握してもらうために、ゲームの解説記事の中で「経験値」という単語が使われている事例を下に引用しました。

ゲームの解説記事における「経験値」という単語の使用例

マイコンBASICマガジン1986年1月号に掲載された「ザ・スクリーマー」の紹介記事を見ると、ゲーム内の施設の説明のところに「この店でキミのビースト・ポイント(経験値のようなもの)をお金にかえてくれるからなんだ。」(p.243)と書かれています(上記の引用は後半部分のみ)。また、1986年2月号の「クルーズチェイサー・ブラスティ―」の記事では、パラメータの説明のひとつとして「通常のRPGのEXP(経験値にあたる CONPUTER LEARNING」(p.244)と書かれているのが確認できます。少なくとも、独特な表現をしていたゲームでの意味を読者に伝えるときに使われるくらいには「経験値」という表現が普及していたと言えるでしょう。

※なお、上の記事がアップされた2日後に同じサイト上に「ゼビウスからポケモンGOまで…」からはじまるタイトルの記事が掲載されていて、そこにもドラクエの話題があがっていました。内容を拡大解釈する人が出ると問題なのでついでにコメントしますが、3つのアイテムを集めたら先へ進めるという手法はドラクエの前にも「ウルティマIV」(オリジン, 1985)が「独立した3つのアイテムを集めて使うと最後の迷宮に入れる」という形ですでに使っています。「夢幻の心臓II」(クリスタルソフト, 1985.11)の4つの石集めのうちの3つも順不同に集めて別々の場所で順番に使うと先に進めるという形でした。アイテムではないですが、初代「ハイドライド」(T&Eソフト, 1984)も3匹の妖精を見つけるとラスボスの城のある島へ行けるという構造です。おそらくこの記事はドラクエで*も*使われていたという趣旨なんだろうと思います。

※あと、もちろんわかっているとは思いますが、「一般的な技法の名称」に「具体的なゲームの名前」を使うことの危険性と問題点についても十分によく考えておく必要があると思います。

※それから、ドラクエにはハードウェアの制限の関係で表示できないカタカナがあったようですが、その中に「夢幻の心臓」で使われた「経験値□□アップ」という表現のカタカナ3文字が含まれているのも、なかなか興味深い事実です。


マップチップの描き方

1985年ごろのRPGの画面をネット上で調べていると、海外のRPGとくらべて日本のRPGの方が非常にカラフルなマップの描き方をしている印象をうけます。国産パソコンRPGのマップの描き方はどのような変遷をたどっているのでしょうか?

下図に「ウルティマI」「ダンジョン」「夢幻の心臓」「ハイドライド」「軽井沢誘拐案内」「夢幻の心臓II」「ウルティマIV」「ドラゴンクエスト」のマップを構成する画像(マップチップ)のうち、平原、森、山の3つを示します(ハイドライドは山がないので岩、夢幻の心臓IIは交互にかさなって表示されているのでその様子のみ示しています)。

「サイズ」と書かれている部分には、主人公の大きさ(主人公のいる場所の大きさ)を1×1とみなしたときに、画面に表示されるマップ領域がどのくらいの広さになるのかを記述しています。また、パソコンの解像度はファミコンと比べて横方向が2倍になっているので、雰囲気をファミコンにあわせるために、各画像は一度縮小したうえで拡大することで解像度を下げる加工をしています。

マップチップの描き方の変遷

1981年に海外で発売された初代「ウルティマ」のマップは、黒い地の上に単色で記号のような図形を描くことで表現されていました。平原は黒地に緑の点をいくつか描いたもの、木は緑の円を交互に配置したもの、山は白い線を重ねたものになっていました。

一方、国産RPGとして1983年12月に発売された「ダンジョン」では木や山の形状が図形というよりは絵に近い画像になっていました。ただし、これらはウルティマと同様に黒い地の上に描いていました。1984年3月に発売された「夢幻の心臓」になると、木や山が完全な絵になり、平原を表す緑色の地の上に描かれる形になります。ただし、表示されるマップの領域はウルティマなどと比べると非常にせまく、5×5のサイズしかありませんでした。

このサイズを広げて、ほぼ画面全体にカラフルで絵的な地上の2Dマップを表示したRPGとしては、1984年の年末に発売されたARPGの「カレイジアスペルセウス」や「ハイドライド」がありました。例えばハイドライドのマップの表示領域はおよそ15×11のサイズがありました。また、マップの周辺にはレンガのようなタイルが描かれていて、画面全体がとてもカラフルでした。実際のマップチップは主人公の大きさの4分の1のサイズになっていて、木が重なりあうような細かな表現もなされていました。

※ちなみに、初期にカラフルな地上のマップを使った事例としてはアーケードゲームの「ゼビウス」のインパクトもとても強かったんじゃないかなと個人的には思っています。 あと、初代「夢幻の心臓」の地上マップの表示方法には「ポイボス」(大名マイコン学院,1983.11)の影響も見られるところが面白いですね。

ドラクエの開発者のひとりである堀井雄二さんがかかわって1985年5月に発売された「軽井沢誘拐案内」は、RPGのようなマップの上で移動ができるアドベンチャーゲームでした。このゲームのマップチップを見てみると、地面は緑の点を規則正しくならべただけのものになっていますが、木や山は初代「夢幻の心臓」のような絵的な表現になっていることがわかります。マップの表示領域は10×7のサイズがあり、そこそこの範囲を見わたせるマップになっていました。

ドラクエの開発が始まった時期の1985年の年末に発売された「夢幻の心臓II」になると、マップ表現は木や山の絵が交互に重ねて配置される形にまで進化しました。表示領域も9×9程度のサイズにまで広がりました。さらに、初代「夢幻の心臓」では木の葉や山肌は緑色や黄色のベタ塗りによって描かれていましたが、タイリングによる中間色表現の手法によって、これらを深緑や茶色に見える色で表現していました(上の図ではドラクエの解像度に近づける加工をしているためタイルがつぶれてしまっていますが)。

中間色表現というのは8色しか表示できないパソコンで、擬似的にそれ以外の色を表現するための手法で、例えば黄色と赤色の点を交互に配置してだいだい色に見せかけるような手法を意味します。国産パソコンRPGでは、カラフルな絵をならべて地上マップを表現する技術がすでにこの時期に使われていたと言っていいでしょう。

一方、この時期の海外のRPGのマップはどうだったかというと、例えば「ウルティマIV」はマップチップの種類こそ増えたものの、木や山などの形状は初代からほとんど変化していませんでした(同時期に日本で発売された移植版の「ウルティマII」(1985.9)と「ウルティマIII」(1985.12)も同様の表現方法を踏襲していました)。

ドラクエがエンディングで参考にしたと言われているクエストロンのマップもネット上で調べてみましたが、AppleII版は同様に黒い地に図形のような画像をならべて描いていました。コモドール64版はかなりカラフルになっていましたが、森は緑色っぽいタイル、山はへの字をいくつか並べたような表現にとどまっていました。自分は海外ゲームについてはくわしくないので、国産RPGのような絵によるマップ表現が日本固有のものとまでは断言できませんが、少なくとも海外ではウルティマIVのような記号的なマップ表現が主流であったとは言えると思います。

これらの経緯を見たうえで、ドラゴンクエストのマップの表現を見てみると、木の形状はハイドライド風、山の形状はダンジョン風になっているのがわかります。山の絵はもう一種類ありますが、その絵は夢幻の心臓の山の絵を縦方向に少しせばめた感じになっているように見えなくもありません。もちろんこれらはありふれた表現でもあるのですが、ウルティマなどの海外のRPGとは明らかに質が異なっています。ドラクエのマップの描き方は国産パソコンRPGの影響を強く受けていたと言えるのではないかなと思います。RPGしか調べていないので、もしかしたら他ジャンルのゲームにも同様のものがあったのかもしれませんが、少なくともこういったマップの描き方の豊富な事例を参考にできる時期にドラクエの開発は始まっています

※ちなみに、ネット上には、ドラクエの地上マップは夢幻の心臓IIのマップの丸パクリだと書いている人もいますが、それはさすがに間違いでしょう。上で示したように、マップの表現のしかたは夢幻の心臓からはじまる国産RPGの流れを踏襲していますが、森や山の配置などのマップの構造は異なっているように見えます。街と城を隣接させる配置などは海外のRPGでもよく見られるもので夢幻の心臓II固有というわけでもありません。もし自分が気づいていないだけで、同じ部分があるのだとしたら、どのへんがどう同じなのか知りたいところです。もしその説明ができないのなら、あまり安易にパクリだなどとは言わない方がいいと思います。


モンスターの絵柄

ドラクエについて、モンスターをアメリカナイズされたものから日本向けにした所が新しかったという人もネット上にはいるようですが、個人的には、海外風を日本風にしたというよりも、高年齢層向けのリアル志向なイラスト風の絵柄を低年齢層向けの漫画的なキャラクター風にしたという方が適していると思います。

以下に初代「夢幻の心臓」と「ドラゴンクエスト」から、両方のゲームに共通して登場するモンスターのオオサソリ(おおさそり)との戦闘シーンを引用して示します。

夢幻の心臓とドラクエのモンスターの描き方の違い

左は初代「夢幻の心臓」(クリスタルソフト, 1984.3)の戦闘画面で、ドラクエとくらべてモンスターの一部がアップで大きく表示されていることがわかります。絵柄も陰影が強調されていてとても魅力的です。当時のパソコンは曲線を描くのに時間がかかったことや、ファミコンとくらべてプレイヤーの年齢層が高めだったこともあり、夢幻の心臓では線画を中心としたイラスト風の絵柄で迫力を出していたと言えそうです。

一方、ドラクエの方はモンスターの全身を風景の画像の上に丸みをおびた線で描いています。他のモンスターも描き方の傾向は同様で、ドラクエのモンスターにも「しりょうのきし(骸骨の騎士、海外でいうところのスケルトン)」や「ゴーレム」など海外のモンスターをベースにしたものがあり、絵柄が完全に和風だったとは必ずしも言えない面があると思います。

ちなみに、初代ドラクエのモンスターは約40種、色や向きや装備の違うものを1系統として数えると全部で15系統ありますが、そのうちおよそ3分の1にあたる6系統(まほうつかい、おおさそり、しりょうのきし、よろいのきし、ゴーレム、りゅうおう(変身後))については、初代「夢幻の心臓」に類似したモンスター(マジュツシ(フードを被った人物)、オオサソリ、ガイコツ キシ(骸骨の騎士)、ボウレイ キシ(鎧を着た騎士)、ゴーレム、リュウ(赤き竜の方ではなく竜王っぽい竜)」)が存在していました(一部イベントキャラも含んでいますが)。これらを比較しても、一方が海外風でもう一方が日本風だったとは必ずしも言えないと思います。もし、これらの名前から想像して日本人がイラスト風の絵を描いても、おそらく「夢幻の心臓」と同じような感じになるのではないでしょうか。

なお、これらのモンスターは「夢幻の心臓」と「ドラゴンクエスト」だけに特有のものではなく、メイジやスケルトンやスコーピオンやドラゴンなどの名前で「ハイドライド」などにも登場していた一般的なモンスターでした。おそらく、スライムが日のあたる野外の平原に経験値かせぎ用のモンスターとしてゲームの序盤に登場するのは「ハイドライド」の影響の方が強いでしょう。他にも光栄の「ダンジョン」を調べてみると、絵柄は全く違いますが「ゴースト」や「キメラ」などドラクエと同じ名前のモンスターが登場しています。「ジャイアントバット」のポーズも興味深いですね。

ところで、なぜ、このような別種の様々な神話や伝承などに登場するモンスターたちが、ひとつの世界の中に混在しているのでしょうか?初代「夢幻の心臓」では、付属品に掲載された物語を読めばその答えがわかるようになっています。簡単に言うと「神々の間の全面戦争によって世界をへだてていた次元の壁にひびが入り、生き物が入り混じってしまったから」です。よくありそうな疑問に対して、世界観による回答を用意していたわけですね。

ついでに書くと、こういった定番のモンスターを全く使わずにファンタジーの世界観を構築したゲームも存在していました。そのことを示すために、下に画像を引用しました。

国産パソコンRPGで採用された独特なモンスターの事例

左は初代ドラクエの少し後ですがほぼ同時期に発売された「覇邪の封印」(工画堂スタジオ,1986.7)の戦闘シーンからの引用です。覇邪の封印では、モンスターを「赤系統で外来の異次元獣」と「青系統で先住の地元獣」に分類することで独自の世界を描いていました。引用したのは砂漠に登場する凶悪な異次元獣として多くのプレイヤーを恐怖におとしいれた「アギャーマ」。このゲームは定番モンスターのゴーレムやドラゴンすら使っていないのですが、それでもプレイした人なら、「アギャーマ」や「テラリン」など、強烈に記憶に残るモンスターが存在するゲームでした。

中央の引用画像はARPGの「メルヘンヴェール」(システムサコム,1985.8)の主人公とモンスターです。中央下が「醜い姿」に変えられた主人公、その上の2匹が最初のステージで登場するモンスターの「ピクシー・アレーナ」と「プーカ・アレーナ」です。主人公と対比をするためか、モンスターは妖精のような可愛い姿をしていました。ARPGまでふくめれば、ドラクエの前にも例えば「メルヘンヴェール」などのような、ポップな絵柄を使った可愛らしいオリジナルの敵キャラで独自の世界観を構築したゲームが存在していたのです。

ちなみに、メルヘンヴェールではアイテムを入手することで右上の画面のようなモンスターマニュアルを表示することができました。この機能によって、ゲームの中でモンスターの姿や名前や強さを確認することもできたのです。

ゲーム画面全体がポップで明るい絵柄になっていった点については「国産RPGクロニクル」という書籍からの抜粋記事について書いた下記の文章でもふれています。

スライムの弱いイメージについて

最近「ドラクエ以前のRPGのスライムは強かった」とか「ドラクエがRPGのスライムを弱いイメージに変えた」などという指摘を頻繁に見るようになりました。しかし、この説明の仕方はあまり適切とはいえないと思います。

多くの人たちがいろいろな場所で何度も何度も指摘していることですが、アーケードゲームやパソコンゲームのプレイヤーの間では「ドルアーガの塔」(ナムコ, 1984.7)や「ハイドライド」(T&Eソフト, 1984.12)の大ヒットによって、スライムの弱いイメージはすでに定着していました。日本のコンピュータRPGのシーンでは「ドラクエ以前からスライムは弱いイメージだった」のです。

一方、いわゆるテーブルトークRPGのスライムは強いイメージだったと思います。ですが、TRPGのスライムは今でも強いイメージから変わっていないように思います。CRPGをTRPG化したものはあるのかもしれませんが、例えばD&Dのスライムがドラクエの影響で弱くなったりはしていなかったと思います。つまり「ドラクエ以前のスライムは強かった」のではなく「TRPGのスライムは強いイメージ(今も昔も)」なのだと思います(ただ、自分はTRPGについてはあまり詳しくないので、もし多くのTRPGで弱いスライムが次々に採用されているのだとしたらすいません)。

当時、もうひとつよく知られていたスライムはツクダオリジナルが発売していたオモチャのスライムで、かなりのブームになっていました。これはバケツ型の容器に入った粘液状の物体ですが、戦ったりする相手ではないため「強い」「弱い」という認識はありませんでした。

ドラクエがしたのは、アーケードゲームやパソコンゲームやTRPGを知らない人たちに対し、CRPGで定着していた弱いイメージのスライムを広めたことだと思います。上でも書きましたが、「ハイドライド」ではスライムが日のあたる野外の平原に経験値かせぎ用のモンスターとしてゲームの序盤に登場します。色もオリジナル版は緑ですが、PC-6001mkII版やMSX版などでは水色です。ドラクエはこれを踏襲した形になっています。今の言葉でいうなら「オマージュ」に見えるでしょう。

ドラクエではじめてRPGにふれた人たちは、この弱いイメージのスライムをそのときにはじめて「知った」のです。そしてドラクエIIIの社会現象化や、ゲームの漫画化、アニメ化などの影響で、ゲームをやらない人たちにも広く知られるようになったのだと思います。説明のしかたの問題なのかもしれませんが、スライムについては「PCゲームの定番要素」を「広めた」ゲームのひとつがドラクエだったのだと思います。

※ちなみに、PC88版の「ハイドライド」では、HPなどのステータスだけを見れば「スライム」よりも「コボルト」のほうが弱く設定されています。しかし、「コボルト」は、最初のスタート画面のマップには登場しないこと、主人公が移動中にダメージを受ける森の中にいること、移動速度が「スライム」よりも速いので攻撃を当てにくく連続ダメージも受けやすいこと、などから、総合的に見れば「スライム」のほうが倒しやすくなっています。そのため、一般的には最初の経験値かせぎは「スライム」でおこなうことになります。

※なお、海外RPGの「ウィザードリィ」(サーテック, 1981)でもスライム(Bubbly Slime)は最弱のモンスターでした。ただし、出現場所が地下であること、色が緑(AppleII版)であること、序盤にランダムに登場する様々なモンスターのうちのひとつであること(Bubbly Slime以外にKobold, Orc, Undead Kobold, Rogue, Bushwarker がランダムに登場するため、序盤のスライムの出現率は他と比べて決して高くはない)が、ハイドライドやドラクエとは異なっていました。

※海外RPGでは、この他に「Dragonstomper」(Starpath, 1982)というゲームでもスライム(slime)は登場していたようです。詳細まではよくわからないのですが、地上の平原に登場する様々なモンスターのひとつにスライムがいたようです( slime の他に snake, deamon, bug, beetle, monky などが序盤からランダムに登場する) 。上記のスライムの話はあくまでも日本のRPGに限定した話だと考えてもらえればと思います。

※ちなみに、数は少ないですがスライムが比較的強い位置づけになっていた国産のPCRPGも全くなかったわけではありません。ですが、それらのRPGのスライムには、この話でよく言われる物理攻撃が効かないなどの強さはなかったですし、そもそも、それらのRPGの名前をあげられるほど当時のPCゲームの知識があるなら、当時ハイドライドが爆発的にヒットしていたことも知っているはずですし、他のドラクエに関連してよく言われる間違ったPCゲームの情報についても正しい知識を当然もっているはずです。そういう人たちには、ぜひ他の間違った情報が広がるのをふせぐ協力をしてもらいたいところです。

以下の図に、初期のコンピュータゲームに登場するスライム風の敵キャラクタのイラスト(名称がスライムでないものも含みます)をいくつかピックアップしてみました。

初期のコンピュータゲームにおけるスライム風の敵キャラクタの変遷

この中で「序盤の弱い敵」でないのは、ザ・ブラックオニキス(地下2階から登場)、ザ・スクリーマー(中盤に登場し毒を使う比較的強い敵)、ゼルダの伝説(中盤に登場)くらいです。 他にもスライム風の敵が登場するゲームはあるので(例えば Beneath Apple Manor(海外,1978)の SLIME や、ザナドゥ(1985.10)の Ochre Jely など)、すべてを網羅しているわけではりませんが、ひとつの参考にしてもらえればと思います。

※ネット上で見つけた 「Beneath Apple Manor」(Don Worth, 1978) のマニュアルでスライムの項目を確認してみたところ、攻撃力は最弱だけれども鎧を弱体化させる特殊能力をもっているところが危険な敵という趣旨の説明が書かれていました。Wizardryなどではこの特殊能力がなくなって弱い敵になったということなのかもしれませんね。

※一部で話題にされている「目がある」とか「ぷるぷるした質感」とか「地上にいる」などの特長も、それぞれ別々ではありますが、ドラクエ以前のCRPGのスライムに見られた特長です。鳥山明さんのアートワークは素晴らしいものですが、それ以前にこれらの特長がなかったという説明は間違っています。ドラクエ以後にデザインされたファミコン版ウィザードリィのイラストなどを、ドラクエ以前のものであるかのように持ち出す人もいるようですが、描かれた時期を無視した不誠実な言説にまどわされないように注意していただければと思います。


ステータス表示

当時のPCゲームでは強さについて「詳細な情報を表示しなくても十分だった」というようなことを書いているページもいくつか見つけました。ドラクエの詳細なステータス表示機能が画期的だったと言いたいようなのですが、当時のPCゲームにその機能がないRPGなんて存在したのでしょうか?当然のことですが「ハイドライドII」にも「夢幻の心臓II」にも詳細なステータスを表示する機能はありました。下に実際のステータス画面の例を示します。

当時のRPGのステータス表示の例

左側が「ハイドライドII」の画面で、ドラクエと同じマルチウインドウシステムを用いて表示されていました。英語表記なので少しわかりにくいかもしれませんが、中央に表示されているLEVELがレベル、A.P.が武器などの装備品をふくめた攻撃力、A.Cが盾などの装備品をふくめた防御力です。つねに表示されるもの以外の詳細なパラメータはここで確認ができました。

右側は「夢幻の心臓II」の画面で、メニューから「ステータスをみる」を選択すると、画面下部のメッセージ領域に詳細なステータスが1行ずつ表示されるようになっていました(写真では4つしか表示されていませんが、キーを押すとメッセージ領域がスクロールし、強さや器用さなどが次々に表示されていきます)。

当時のパソコンRPGでは詳細なステータス表示の機能はごくありふれたものだったと言っていいと思います。ちなみに「夢幻の心臓II」のステータス表示では、武器などの装備品をふくめた攻撃力は表示されないので、もしかしたらそのことを言いたかったのかもしれませんが、「ハイドライドII」では表示されるので、PCゲームの話としてはそれもあてはまりません。

その後いろいろ調べたところ、この間違いも「ドラゴンクエストへの道」という漫画が原因のようです。ドラクエのプロデューサーがレベル表示は絶対必要だと話をして、それに対して自分が今レベルいくつかはだいたいわかると回答した開発者に、パソコンは一人で遊ぶかもしれないがファミコンはみんなで遊ぶから必要だと指摘をした、というような趣旨のエピソードが書かれているようなのです。

自分は小中学生のころに友達と一緒にパソコンゲームをワイワイと楽しんでいたので、その指摘自体が少しずれているとは思いますが、それは今はおいておきます。このエピソードは当時のPCゲームで普通に存在していたレベル表示について疑問視した開発者をプロデューサーが説き伏せたという話でしょう。この話に登場するドラクエの開発者という、ごく一部のPCゲームプレイヤーが言っただけの話が、いつのまにか当時のPCゲームのプレイヤーにとってステータス表示が不要だったという明らかな間違いに変化した可能性があります。こういう拡大解釈は止めるべきでしょう。

※あと、上で例にあげた2つのRPGではメニューを開かないとレベルの数値は表示されませんが、もちろんレベルが常に画面に表示されているRPGも例えば「ウルティマIII」や「アークスロード」などがすでに存在していました。この漫画で指摘されているレベル表示の話も、すでにあるものの中からの選択の話であって、この点でそれまでのPCゲームにない画期的なことをしたわけではないのです。

※なお、ハイドライドIIのマルチウインドウ表示については下記にまとめてあります。「ハイドライドII」では「マルチウインドウ」と「画面切り替え式マップ」を採用することで、ドラクエと同程度のフィールドの視野を確保しつつ、ステータスの確認や装備の変更などの作業も行えるようなシステムを実現していたのです。

ちなみに余談ですが、初代ハイドライドをファミコンへ移植した「ハイドライド・スペシャル」には一部にIIの要素が導入されていて、マルチウインドウ風のメニューシステムも採用されていました。ファミコンの話に限定してもドラクエは最初にマルチウインドウを採用したゲームではないので、間違いを拡散しないように注意していただければと思います。

音楽

このページの最後にコメントしたNHKのドラクエ特番に関連して、クラシック風のBGMについても書いておきたいと思います。当時のパソコンゲームでは、クラシック音楽を利用することは、けっこうよくあることでした。

例えばアクションゲームの「テグザー」(ゲームアーツ,1985.4)ではエンディングにベートーベンの「月光」が使われていましたし、アドベンチャーゲームの「アビスII帝王の涙」(ハミングバードソフト,1985.7)ではオープニングにドボルザークの「新世界より」第4楽章、エンディングにヘンデルの「ハレルヤ」が使われていました。

また、RPGでは「メルヘンヴェール」(システムサコム,1985.8)がオープニングとビジュアルシーンでクラシック風のBGM(おそらくオリジナルだと思われる)を使っていました。ファンファーレに続けてテーマ曲が流れるオープニングは当時とても印象的でした。

ちなみにフィールドで使われていた曲は、昔のギター曲だったそうです。あまり詳しくは知らなかったのですが、例えば、序盤のステージの曲は、バロック音楽時代のスペインのギタリスト、ガスパル・サンスが作曲した「カナリオス」という曲のようです。中盤の海と氷のステージではアグスティン・ピオ・バリオスの「マドリガル・ガボット」、終盤の迷宮ではマヌエル・マリア・ポンセの「ガボット・組曲イ短調」という曲が使われています。

それから、海外RPGのウルティマIIIやIVもBGMはクラシック風だったと言っていいだろうと思います。

まだネット上には「初代ドラクエはクラシックを使った点が画期的だった」のような嘘を書いている人は見かけていませんが、NHKの特番の内容を勝手に拡大解釈するようなことは、ぜひやめていただきたいと思います。

余談ですが、最近では、ゲーム内での状況に応じて変化する音楽のことをインタラクティブミュージック(アクティブミュージック、動的音楽など)と呼ぶそうです。 最近のゲームでは非常に高度な技術が使われているようですが、シンプルなものは1980年代のPCゲームにも見られるので、いくつか紹介したいと思います。

すぐに思いつくのは「ザナドゥ」(日本ファルコム,1985.10)でしょう。ザナドゥには「食料」の概念があって、これがゼロになると体力が減っていきます。このとき「はらぺこ」の状態を表現するために「BGMがゆがむ」という仕組みが導入されていました。

また、続編の「ザナドゥ・シナリオII」(日本ファルコム,1986.10)では、戦闘しているかどうかに関わらず常にフィールドのBGMが流れ続けるのですが、「戦闘をしている間」だけ「BGMのテンポが速くなる」という演出がなされていました。前作では戦闘開始時と終了時にジングルが鳴っていたのですが、速度の変化による表現だけに変更されているんですよね。こんな昔の時期から、ゲーム内の状況に応じてひとつの音楽の音程や速度を変化させる仕組みが導入されていたわけですね。

2種類の別々の音楽を、状況の変化に応じて自然に切り換える仕組みを使ったゲームもありました。例えばテグザーの続編である「ファイアーホーク」(ゲームアーツ,1989.11)では、「ボスのいる場所に入り込む」と、とても自然な形で「BGMが別のものへと変化する」ようになっています。

細かい仕組みなどを確認したわけではないですが、おそらくフィールド用のBGMとボス戦用のBGMが用意されていて、これをうまく繋げる仕組みが導入されているのだと思います。あくまでも推測ですが、フィールド用のBGMに、例えば各小節の最後などのような「切り換え可能な場所」がいくつか設定されていて、プレイヤーがボスの領域に入っても、その場所まではフィールド用のBGMをそのまま流しつづけ、ちょうど「切り替え可能な場所」にきたタイミングでボス戦用のBGMへと切り替えているのではないかと思います。

こういった様々な工夫が積み重なって、現在の高度な技術へと発展していると考えると、歴史の厚みが感じられて面白いですよね。

他分野のプロの起用

すぎやまこういちさんや鳥山明さんらが開発に関わっていたことから、他分野のプロを採用したのはドラクエが初めてだったのだろうかと疑問の声をあげている人もいるようです。少なくとも「当時のPCゲームでは他分野のプロもゲーム作りに参加しはじめていた」というのが、その回答になるだろうと思います。

プロの漫画家が直接ゲームを作成した事例として、例えば「槇村ただし」さんの作品「エルドラド伝奇」(エニックス,1985.1)などは有名でしょう。

「ザ・スクリーマー」(マジカルズゥ,1985)では、漫画家の「東本昌平」さんがパッケージに付属の漫画を描いていて、ゲームのエンディングでは、スタッフロールにスペシャルサンクスとして名前があがっています。

「レリクス」(ボースティック)のPC98版は1986年の2月に発売されているようですが、オープニングとエンディングに、「大都会」や「愛をとりもどせ」(北斗の拳の主題歌)などで有名な「クリスタルキング」が作曲した曲が使われています。ドラクエの「すぎやまこういち」さん自身もドラクエの前に「ウイングマンIIキータクラーの復活」(エニックス,1986.4)でBGMなどを担当されています。

また、「ブラスティ」(スクエア,1986.4)では、ロボットのキャラデザなどを有名なアニメ制作会社「日本サンライズ」が担当しています。このゲームは小説なども発売されていて、最近では、主人公の機体のプラモデルが発売されたりもしています。

下図の左はPC98版レリクスのオープニング、右はブラスティのタイトル画面からの引用です。上述した通り、レリスクの画像では Music compose として Cristal King (PC88版で Crystal King に修正)、ブラスティの画像では COPYRIGHT として NIPPON SUNRISE の名前が表示されていることが確認できると思います。

他分野のプロがゲームの制作へと参加した事例

※ちなみに、レリクスのオープニングとエンディングの曲は、クリスタルキングのアルバム MOON に Woman と Smile Again という曲名で収録されています。

自分はファミコンのゲームについてはあまり詳しくないのですが、もし仮に、ドラクエ以前にファミコンでは他分野のプロを採用したゲームがなかったのだとしたら、それこそ、「当時のパソコンゲームで流行していた文化(あるいは流行しはじめていた文化)」をファミコンへと伝えるゲームのひとつがドラクエだった、ということになるかと思います。


タイトルについて

ドラクエの後に「ドラゴン」をタイトルにつけるのが流行したというような記述も見ましたが、ドラクエ以前にも「ドラゴン」がついたタイトルは毎年のように出ていました(しかも有名なゲームがけっこう多いです)。

例えば国内では1982年にRPGという名称は使っていないもののRPG風のゲームがいくつか出ていて、その中には「ドラゴンアンドプリンセス」(光栄)や「ドラゴンレア」(普賢電子)というタイトルのゲームがありました。1983年には世界初のLDゲームとして有名な「ドラゴンズ・レア」(シネマトロニクス)が発売されていて、アーケード版は日本の雑誌でも話題になっていました。1984年には非常に有名な国産RPG「ドラゴンスレイヤー」(日本ファルコム)が発売され、1985年のはじめにはこれも有名なアーケードゲーム「ドラゴンバスター」(ナムコ)が稼動しています。ドラクエがなくても昔からタイトルに「ドラゴン」をつけたい人たちがけっこういたわけです。

ちなみに「クエスト」という単語についても1984年8月に「ザ・クエスト」、1985年8月にその続編の「リング・クエスト」という海外のアドベンチャーゲームが国産パソコンに移植されています。何でもかんでもドラクエの功績かのように語るのはやめたほうがいいでしょう。

「クエスト」という単語を使ったゲームが存在していたことを示すために、下図の左に「ザ・クエスト」のタイトル画面を引用しました。画像からもわかるように、ドラゴンを追い求める物語になっています。右は「リングクエスト」のゲーム画面からの引用で、RPG風の要素が存在していたことが確認できます。当時、このようなゲームが国内向けに移植されて発売されていたのです。

ザ・クエストとリングクエスト

これらを移植したスタークラフトについては下の文章でもふれています。

なお、この他にも、海外の有名なAVGとしては「King's Quest (キングズクエスト)」(シエラオンライン,1984)のシリーズなどが存在しています( 2作目が1985年、3作目が1986年に発売されていて、それ以降は同シリーズと並行して「Space Quest (スペースクエスト)」(1986~)や「Police Quest (ポリスクエスト)」(1987~)などのシリーズも展開されている)。

ざっとですが追加で調べてみたところ、確かにファミコンのゲームには「ドラゴン」という単語をタイトルにふくむゲームがけっこうあるようです。ただし、その中には、上で書いたドラクエ以前に存在したゲームの移植作品や続編作品、カンフーの龍的な意味でドラゴンを使った作品、海外のゲームを移植した作品、ドラゴンボールをゲーム化した作品(タイトルにドラゴンボールと書くので必然的に「ドラゴン」という単語もふくまれる)など、あきらかにドラクエのタイトルの影響を受けていないことが明白なゲームが数多くふくまれていました。もしかしたらドラクエの影響でタイトルにドラゴンをつけたゲームがあったのかもしれませんが、もしそう主張したいなら、主張したい人が具体的なタイトルをあげてその具体的な根拠を明確にするべきでしょう。

その後、さらに詳しく調べてみました。タイトルに「ドラゴン」がつくファミコン用ソフトは自分が調べた限りでは1986年5月から1993年8月までの約7年間に31本発売されていたようです。ここからドラクエシリーズ4本を除くと残りは27本ですが、そのうち、ドラクエ以前のゲームの移植や続編(「ドラゴンバスター」など)は4本、カンフー系アクションゲーム(「ダブルドラゴン」など)は5本、海外発祥のもの(「AD&D」系や「ドラゴンウォーズ」など)は5本、ドラゴンボール関連のものは8本ありました。つまり、27本中22本はドラクエのタイトルの影響とは無関係です。残りの5本のうち「スーパーチャイニーズ2・ドラゴンキッド」をカンフー系、「ドラゴンユニット」をドラゴンバスターの影響下のゲームとみなすと残りはたったの3本しかありません。

自分はファミコンゲームはあまりくわしく知らないので多少の誤差はあるかもしれませんが、7年間に3~5本程度のペースだと考えると、ドラクエの前後で状況の変化はほとんどありません。「ドラクエ発売後にタイトルに「ドラゴン」という単語をふくむファミコンゲームが多数発売されていた」というのは事実ですが、それに対して「ドラクエのタイトルの影響があった」と解説するのは完全な間違いと言っていいでしょう。

ドラゴンと戦士の構図

初代ドラクエのパッケージの「ドラゴンと戦士が向かい合って対峙する構図」のイラストが、TRPGのD&Dのイラストのオマージュになっている、ということはよく聞く話だと思います。

この話題をあげる際に知っておいて欲しいことは、この構図は当時RPGなどで流行していて、決してドラクエだけに特有のものではない、ということです。

上で引用した「ザ・クエスト」のタイトル画面を見ると、女性を守る形にはなっていますが、ドラゴンと戦士が対峙する構図になっています。 他にも上でタイトルに「ドラゴン」がついたゲームとしてとりあげた「ドラゴンレア」(普賢電子, 1982)、「ドラゴンアンドプリンセス」(光栄, 1982)、「ドラゴンスレイヤー」(日本ファルコム, 1984.11)のパッケージイラストを調べてみると、同様の構図が採用されていたことが確認できます。

下図はクリスタルソフトが当時発売していた初代「夢幻の心臓」(1984.3)のタイトル画面と「リザード」のPC88版(1984.12)のパッケージイラストから引用したものです。どちらもドラゴン風のモンスターと戦士が対峙する構図になっています(「リザード」の方のモンスターはリザードで姫を守る形になっていますが)。

当時よく使われていたドラゴンと戦士が対峙する構図

これらとドラクエのパッケージイラストとの違いをあげるとすれば、ドラクエはかなり細部までD&Dのイラストに似せているところだろうと思います。このような構図がかなり流行している中で、あのイラストが採用されたという点も、ぜひ知っておいていただけたらと思います。


操作体系

当時のRPGにキーボードショートカットなどを使うものがあったことをとりあげて、RPGの操作をしやすくしたのがドラクエの画期的な点だったと言っている人もいるようです。しかし、「夢幻の心臓II」はドラクエと同様に簡単な操作で遊ぶことができました。

初期のウルティマやウィザードリーなどとは違い「夢幻の心臓II」ではカーソル移動によるメニューシステムが採用されていました。そのため、テンキーに割り当てられた方向キーと決定・キャンセルのキーのみでほとんどの操作が可能でした。例外はゲーム開始時の名前の入力とゲーム中の数値入力のみでしたが、この2つはキーボードで直接入力する方がメニューで選択するよりも操作が簡単になる部分だと言っていいでしょう。決定とキャンセルが5と0のキーにも割り当てられていたため、ゲーム中はテンキーのみ(つまり片手だけ)で遊ぶことができました。

移動の操作をテンキー入力に置き換えるタイプのジョイスティックにも対応していたので、名前の入力が終われば、後はキーボードを使わずにジョイスティックだけでクリアできるゲームにもなっていました(数値入力の方法は少し特殊になりますが)。

このことは当時の広告でも確認できます。例えば下記のページに掲載されている広告の画像を見ると「ゲーム中のほとんどの部分は、テンキーで操作でき、もちろんジョイスティックも使えます」と積極的にアピールしていたことが確認できます。

“スペースキーに重し”がキーワード!? 「夢幻の心臓II」広告の画像

さらに「夢幻の心臓II」ではキャラクターを移動して村人と接触するだけで会話ができました。また、ハシゴに接触すると上下に移動するか問い合わせるメニューが自動的に表示され、それを選択するだけで移動ができました。宝箱も接触すれば自動的に開け方を選ぶメニューが表示されました。初代ドラクエのように話す方向を選択したり、メニューを開いて「かいだん」などのコマンドを自分で呼び出す必要もありませんでした。

初代ドラクエでは戦闘メッセージの表示速度などはゲーム開始時にしか設定できませんでしたが、「夢幻の心臓II」では通常移動時にメニューで変更することが可能でした。速度を最速にして敵の戦闘ターンを一瞬で終わらせるように設定することもできました。移動も上下左右へしか移動できないドラクエとは異なり、斜め方向へも移動ができ、その移動速度もかなり高速(SRのV1Hモード使用時)でした。「夢幻の心臓II」の方が初代「ドラクエ」よりもさらに操作しやすい部分すらあったのです。

ゲーム開始時にひらがなをふくむ名前をパッドで入力できるようにした点については、もしかしたらドラクエの画期的な点と言えるのかもしれません(アーケードのハイスコア入力などについてはよく知らないので、もしすでにそういうものがあったとしたらすいません)。

※ちなみに「上海」(スタークラフト,1985.6)も方向キーと決定・キャンセルのキーだけで操作できました。1回決定キーを押すと「↑攻撃、→自分を知る、↓防御」、もう一度押すと「↑セーブ、←サウンドオンオフ」のような表示がなされ、方向キーを押すことで対応する操作ができました(実際の表示はカタカナです)。このゲームは、アタリのコンシューマゲーム機でも遊べる海外ゲーム「Ali Baba and the Forty Thieves / アリババ」(Stuart Smith, 1981/ スタークラフト,1985.2 移植)のシステムをベースにしているため、このような操作体系になっています。

※海外の初期のコンシューマゲーム機用RPGに「Dragonstomper」(Starpath,1982)がありますが、操作方法は「アリババ」と同様の「各方向に命令を割り当てる方式」が採用されていたようです。

当時のRPGの操作方法に関係する画像を下に引用しました。

国産RPGにおけるメニューシステムの採用について

かなり初期にドラクエや夢幻の心臓2と同様のカーソル移動式メニューを採用したRPGとしては、初代「夢幻の心臓」(クリスタルソフト, 1984.3)があげられます(「オホーツクに消ゆ」よりも半年以上前、「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」と同時期に発売)。左上にメニュー部分を拡大した画像を引用しました。このゲーム画面を見るとメニューの項目のひとつが赤字になっているのがわかると思いますが、矢印キーでこれを動かしてスペースキーを押すことでコマンドを選択できました(これとキーボードショートカットの2通りの選択方法が提供されていたのです)。ただし、マップ上のプレイヤーの移動は矢印キーではなくテンキーを使う必要がある二重構造になっていました。この二重構造も「夢幻の心臓II」では統一されています。

なお、初代「夢幻の心臓」の操作方法は下記でも説明しているので参考にしてください。

※同時期に海外では「Questron (クエストロン)」(Strategic Simulations, 1984)でカーソル移動式メニューが採用されていたようです(自分にはどちらの発売が先だったかは確認できませんでした)。

※なお、「ハイドライドII」(T&Eソフト, 1985.10)についても、基本的にはカーソル移動式のメニューシステムが採用されていたのですが、アイテムを捨てるときに「D」キーを押す必要があるなど、ごく一部に残念ながらキーボードショートカットが残ってしまっていました。

それから、通常移動時のメニューについて、ドラクエには8個の項目(話す、呪文、強さ、道具、階段、調べる、扉、取る)がありました。一方、「夢幻の心臓II」の項目は11個ありますが、システム関係の操作(名前の変更や速度の設定など)をのぞくと、たった6項目だけ(道具を使う、呪文を唱える、道具の交換、順番を変える、仲間と別れる、ステータスを見る)でパーティ関係の操作までおこなえました。「夢幻の心臓II」では、右上の画像が示すように、接触対象に応じた動作(人なら会話、敵なら戦闘、ハシゴなら移動の問い合わせ、宝箱なら開ける方法の問い合わせ)が自動的におこなわれる仕組みが採用されていたわけですが、この仕組みによって冗長な項目をなくしたシンプルなメニューシステムも実現できていたのです。

プレイアビリティについては「夢幻の心臓II」の方が優れている点も多かったと言っていいでしょう。ドラクエだけが一方的に高かったというのは非常に偏った見方だと思います。

コマンド選択式AVGに対する誤解について

なお、ドラクエでも採用されていたカーソルでコマンドを選択する方式に関連して、「オホーツクに消ゆ」(アスキー, 1984.12)を「初のコマンド選択式アドベンチャーゲーム」と解説するケースをよく見ますが、これは完全な間違いです。そのことがわかる事例として、「オホーツクに消ゆ」よりも前に発売されたマイコンBASICマガジン1984年5月号に付属のスーパーソフトマガジンから「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」(以後「ミコアケ」と表記)をとりあげたページを下に引用しました。

ミコとアケミのジャングルアドベンチャーで画期的とされたコマンド選択方式

このページは「チャレアベ」の愛称で当時とても人気の高かった山下章さんの連載コーナー「チャレンジ・アドベンチャーゲーム」から引用したものです。「カーソルでコマンドを選たくするという入力方法も画期的です」と書かれており、コマンド選択式を画期的な点として紹介していたことが確認できます。「アドベンチャーゲームになじみのない人たちでも手軽に楽しむことができます」とも書かれていて、コマンド選択式の利点も明確に指摘されていたことがわかります。

もちろん「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」(システムソフト, 1984.3)の前にもコマンド選択式は存在していたのですが、前例である「トリダンタル」(パックソフトニカ, 1983)「熱海温泉アドベンチャー」(ベーシックシステム, 1983)「スパイ00.7」(月刊マイコン, 1983.4)などを調べてみたところ、数字や文字をひとつ押すことで選択する方式が採用されていたようです。これらに対して「ミコアケ」は方向キーでカーソルを動かして単語を選択するという、後にゲーム機などでも使われる手法が採用されていた点が異なっていました。

当時の多くのPCゲームプレイヤーが「ミコアケ」を「初のコマンド選択式アドベンチャーゲーム」と認識しているのは、カーソル移動方式を採用していた点と、人気コーナーの「チャレアベ」で画期的だと紹介されていた点の影響が大きいのだろうと思います。

また、規模の大きなアドベンチャーゲームでの採用だったことなども、その要因のひとつと言えるかもしれません(それ以前の採用例はテープ版だったのに対し、「ミコアケ」はフロッピーディスク版で画面数も50を越える本格的で内容も豊富な大作だった)。

※「女子寮パニック」(エニックス, 1983.6)もコマンド選択式を採用していたようなので詳細を調べてみました。このゲームは漫画家の「槙村ただし」さんの作品で、全60部屋で構成された女子寮のどこかに閉じ込められた恋人を探し出すAVGです。トラップなどの使いまわしが多くて実際のイベントの数は20個程度、仕掛けも単純なものがほとんどでしたが、4方向のキーにコマンドを割り当てる選択方式が採用されていて、シンプルですがとても操作のしやすいAVGでした。

※「スパイ00.7」については「アドベンチャーゲームとRPGへの展開」の文章でも説明しています。

なお、当時のアドベンチャーゲームのコマンド選択方式に関する状況は下記にも詳しくまとめてあります。興味があれば読んでみてください。

上の文章にも書きましたが、「オホーツクに消ゆ」はコマンド選択式AVGが次々に発売されていく中のひとつとして発売されています。他のコマンド選択式との細かな違いについては上の文章に書いてありますが、もし「オホーツクに消ゆ」についておおまかに説明をするとしたら「初期にコマンド選択式を採用したいくつかのAVGの中では有名なもののひとつ」くらいが妥当でしょう。「最初だった」という説明は明らかに間違っているので、これ以上誤解を広げないように注意をしていただけたらと思います。

ちなみに、上述のチャレアベの記事では、引用したコマンド選択式の話題のほかに、画面が瞬時に表示される点と、クリア方法が複数用意されている点が、「ミコアケ」の画期的な点として紹介されていました。

その他にも、この記事では指摘されていませんが、プレイヤーがとった行動やその結果などのゲーム中に表示される情報を、全て主人公であるミコとアケミの会話で表現している点も特徴のひとつです。「ミコアケ」が後のゲームに与えた影響はとても大きかったように思います。 (直接的な影響の有無はわかりませんが、例えば主人公のひとりごとで状況を表現する「ザ・デストラップ」(スクウェア,1984.10)などもありましたね)

余談ですが、瞬間画面表示のAVGについて言えば、いわゆるアスキーアートのように文字を組み合わせて絵を表現するタイプのゲーム(MZ-700版「タイムシークレット」(ボンドソフト,1983)など)でも画面は一瞬で表示されていました。また、画像は単色ですが、MZ-80B版「ドリームランド」(マイクロキャビン, 1983)でも瞬間画面表示の技法は採用されていた可能性があるようです(実物は見ていないのですが、フロッピーディスクからVRAMへデータ転送して画面を表示していたとの情報がネット上にあがっていました)。

ミコアケの選択式に関する当時の情報

書籍版の「チャレンジ!!パソコンアドベンチャーゲーム」(山下章 著, 電波新聞社, 1985.11)には、195~202ページに「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」の開発記が掲載されています(ページ番号はB5サイズの元版のもの)。198ページを見ると、入力方式を選択式にした理由には「(1)キーボードからの入力が簡単、(2)言葉さがしでつまってしまうことが少ない、(3)スピーディにゲームが進められる」などがあり、選択をカーソル式にしたのは、「ディスクユーティリティ98」という商品のカーソル方式が気に入ったから、という主旨のことが書かれています。

そして、最後のページには、下記の開発者からの文章が記載されていました。

「「ミコ・アケ」以降に発表されたアドベンチャー・ゲームにいろいろな形で選択方式で取り入れられたり、美しいフルグラフィックが瞬間表示されるものがでてきたりと、日本のアドベンチャー・ゲームに与えた影響は大きかったと自負しています。」(p.202)

※ちなみに、ミコアケ以降に発表された選択方式かつ瞬間表示のAVGには、例えば「英雄伝説サーガ」や「オホーツクに消ゆ」などがあります。このことは当時を知らない人でも発売月などを調べれば確認できると思います。

また、書籍の後半の「開発者からのメッセージ」の欄でも、ミコアケは1年半前のゲームでシナリオは現在のものと比べてかなり貧弱かもしれない、という主旨の記述はしつつも、しかしながら「当時のアドベンチャー・ゲームの常識を破り、あえてコマンド選択式にした点については自信を持っています」(p.281)とも書かれています。同じページに掲載されている山下章さんが書いたと思われる「ソフトの特徴」のところでも「日本ではじめて瞬間画面表示を取り入れた偉大なAVG。コマンドの選択式、ミコとアケミがどのようなコマンドに対してもそれなりの反応をするなど、完成度は非常に高い(引用者注:中略)当時のAVG界に大きな衝撃を与え、少なからず現在のAVGにまで影響をもたらしている。」(p.281)と紹介されています。

自分が上で書いた見解は、当時の書籍に掲載されていた見解ともほぼ一致しているのです。当時、このような様々な書籍や雑誌などもとおしてリアルタイムにアドベンチャーゲームを体験し、記事に共感し、開発者にあこがれ、尊敬していたひとりとして、自分は当時の開発者の方々のこの想いを大切にしたいと思っています。みなさんにも、ぜひそのことを理解していただけると嬉しいです。

※この書籍については下記のリンク先でも文章を書いています。興味があれば読んでみてください。

AVGにRPGパートを持たせるアイデア

同じ作者のつながりで「軽井沢誘拐案内」(エニックス,1985.5)の「AVGにRPGパートを導入するアイデア」を特別だったかのように言う人もいます。しかし、このアイデアは「アゲイン」(エニックス,1984.12)で採用されていたものでもありました。そのことを示すために、下にアゲインのゲーム画面からRPGパート開始時の説明画面と、敵との遭遇時の画面を引用しました。

アドベンチャーゲーム「アゲイン」で導入されたタイニーRPGパート

このパートは、へニックス貿易の社員だった主人公がヘマをして無法都市「ゴモラム」へ左遷され、本社へ戻るために「石油」を掘り出す、という場面で導入された現代風のRPGでした。説明の部分には「これは(タイニーロールプレイング)です!!」と明示されていました。文字が小さいので、図の右上に、敵などと遭遇したときのメッセージを拡大して引用しましたが「日雇い人夫があらわれた!」と、ドラクエと同様の表現もすでに使われていました。


プレイヤーの名前

このページを書くためにネットで情報を集めるまで知らなかったのですが、初代ドラクエには最初に入力する名前に応じてパラメータが変化する仕組みまで導入されているようです。当時ザナドゥに関連して雑誌などでかなり話題になっていた隠しネーム(最初に入力する名前によっては特別なパラメータでゲームが開始される)の要素までアレンジして取り入れていることになるのかもしれません(ザナドゥ以外にもあったかもしれませんが)。


日本語表現の工夫

ドラクエ以前の国産RPGで使われている日本語表現について、単に海外ゲームの名称などを日本語表記にしただけ(例えばPotionをポーション、Clubをクラブ、など)だったかのように書いているページも見つけました。しかし、初代「夢幻の心臓」の時点ですでに「キズグスリ」「コンボウ」など、きちんと日本語に翻訳した表現が使用されていて、「夢幻の心臓II」では、それがひらがなで表示されていました(「せいどうのよろい」「てつのよろい」などの素材を含む表現も使われている)。

最近公開されたWeb上の記事で、帷子(かたびら)や雷(いかずち)など、難しい言葉でもあえて古語風の表現を使うことがドラクエ特有のものだったかのような誤解をまねきかねない文章も読みました。しかし、もちろんその工夫も初代「夢幻の心臓」の時点ですでにおこなわれています。

「夢幻の心臓」のアイテムには「クサリ カタビラ(鎖帷子)」、魔法には「イカズチヨ ワガ テキヲ ホロボセ(雷よ我が敵を滅ぼせ)」などの表現が使われていました。魔法の名称は全て呪文のようになっていて、以下漢字かな混じりで書きますが「炎よ我が剣となれ(剣はケンではなくツルギ)」「精霊よ我が盾となれ」「毒素よ無害なる血となれ」など、どれも本当に魅力的な日本語の表現が使われていました。

こういった日本語表現の工夫はドラクエ以前からなされているものであって、ドラクエ発売時にはそれほど特別なものではなく、ドラクエはその方向性を踏襲したと言っていいと思います。

※ちなみに、ネットで調べた範囲でですが、「夢幻の心臓」よりも前に発売された「ダンジョン」(光栄, 1983.12)でもアイテムの名称には「クサリカタビラ(鎖帷子)」などの日本語表現が使われていたようです。ただし、魔法や敵の名称については「ライト」や「ジャイアントスコーピオン」など、英語の名称を日本語表記にしたものだけが使われていたようです。

主人公を勇者と呼ぶこと

ドラクエ以前に主人公を勇者と呼んでいないゲームがあったことをとりあげて、ドラクエ以前のRPGでは主人公を「勇者」とは呼んでいなかったという趣旨のことを書いているページも見つけました。

しかし、「アークスロード」(ウィンキーソフト,1985.6)では、背景のストーリーに「永遠の都ダイオロスより来たる勇者達よ」と主人公たちに語りかける王の記述があり、広告などにも掲載されていました。また、夢幻の心臓の初代の広告やIIのゲーム内でも「勇者」という単語は使われていました。「ファンタジアン」(クリスタルソフト,1985.2)も「勇者」が「魔王」を倒しに行く物語です。当時、主人公たちを「勇者」と呼んでいるRPGは普通に存在していたのです。

下の画像では当時の「勇者」という表現の使用例を示しています。

ドラクエ以前の国産RPGでの「勇者」という表現の使用例

左の画像では上で示した「アークスロード」の広告の内容が確認できます。ちなみに、ゲームに付属の説明書にも「魔王を倒すため、島の王は勇者を集めている」という記述がありました。このゲームではレベルをある程度にまで上げて城へ行くと「勇者よ、我が王女を救い出して欲しい。魔王を倒すためには地底に持ち去られた宝がいる。地底への鍵、アークスの杖を与えよう。」(実際はカタカナ表記)というメッセージが表示されます。ドラクエ以前にも「アークスロード」などのRPGでこのような「勇者」や「魔王」の表現が使われていたのです。開発元のウィンキーソフトは、初代ドラクエ発売直後の時期には、人間にされた魔界の王を主人公にした「ロストパワー」(1986.6)という、逆の発想のRPGも発売しています。

また、右の引用画像では、「夢幻の心臓II」のゲーム内で「勇者よ、魔神を倒すにはシルヴィア姫をサルア城にかえすことが必要なのだ」と兵士が話している様子が確認できます。姫を牢から助け出すと、その周囲にいるモブキャラのメッセージがこれに変更され、ユーザが操作している「勇者」を次の行動へとみちびく仕組みになっていました(周辺にいて仲間になるキャラ以外のモブキャラが全て同じメッセージになるのは少し残念ですが、ストーリーが進むとモブの会話が変化する仕組みがこの時期に使われていました)。

ちなみに、「夢幻の心臓II」にはクラスチェンジ(転職)のシステムがあり、主人公を戦闘系へとクラスチェンジすることで、職業を「勇者」にすることもできました(上述のメッセージは職業に関係なく同じ表示でしたが)。まさに「夢幻界からよみがえった戦士が「勇者」となり、仲間を集めて協力して侵略者の魔神「暗黒の皇子」を倒す」という王道的なストーリーになるわけですね。

パソコンゲームではハイドライドや夢幻の心臓などのシリーズによって、西洋風の王道的なRPGの世界はすでに描かれていたので、ドラクエが発売された1986年中盤には、魔王が主人公のRPG(ロストパワー)や、既存の有名なモンスターを全く使わずにオリジナルの敵で世界観を構築したRPG(覇邪の封印)、主人公が精神体で肉体をのりうつっていくことで成長していくRPG(レリクス)、なめらかに動く3Dポリゴンで建物内を表現したRPG(ウィバーン)、終盤にモンスターを仲間にするRPG(アスピック)など、さらに工夫をこらしたゲームが登場していました。

※ただし、「レリクス」は今の基準だとおそらくアクションアドベンチャーに分類されると思います。

※当時のRPGやAVGの発売時期は下記のページにまとめてあります。

※過去にドラクエの勇者と魔王の構図について記事を書いたプロのライターさんの中には、「夢幻の心臓II」のゲーム内で「勇者」という単語が使われていたことを、つい最近まで知らなかった人もいたようです。ここのような個人サイトとは違って、プロのライターさんにとっては一度出した原稿の修正は難しいと思いますが、これ以上誤解を広げない努力をしていっていただけたらと思います。

参考となる資料として、上述した「アークスロード」のゲーム内で「勇者」と「魔王」の用語が使われたシーンの画像を下に引用しました。このゲームではセリフはあまり表示されないのですが、その数少ないセリフの中で、「勇者」と「魔王」という用語や構図は確実に使われていたのです。

アークスロードで使われていた「勇者」と「魔王」の構図と用語

また、下記のプロジェクトEGG公式ツイッターのつぶやきに「アークスロード」のマニュアルの一部が掲載されています。そこでも「勇者」と「魔王」の単語が使われていたことは確認できます。

プロジェクトEGG公式twitter EGGなう! 2020年3月11日のツイート

ちなみに、クリスタルソフトの「ファンタジアン」も調べてみたところ、マニュアル(p.1)に「勇者」と「魔王」の表記があり、ラスボスを倒した直後のメッセージの中に「魔王の玉座には」、エンディングのメッセージの中に「勇者たちよ」という表現が使われていました(実際はカタカナ表記)。「勇者と魔王の構図」は当時のRPGでは定番要素のひとつになっていたと言っても良いように思います。

なお、初代「夢幻の心臓」では、アイテムとして「勇者の鎧」や「勇者の紋章」、遭遇する敵として「魔王」という用語が使用されています(実際はカタカナ表記)。コンピュータRPGで使われる単語としても、これらは別に特殊なものではなかったように思います。

「夢幻の心臓II」のラスボスは「魔神」と表現されていますが、すでに前作で普通の敵として「魔王」を出していて、別のゲームのラスボスとしても使っているので、格上の存在として「神」という文字を割り当てたのかもしれませんね。

※「魔人」と勘違いしている人もいるようですが、マニュアルでは「魔神」という漢字が使われています(29ページなど)。

※アドベンチャーゲームのバックストーリーまでふくめてよければ、例えば「聖なる剣」(クリスタルソフト,1983.5)などでも「勇者」と「魔王」の単語は使用されています(ただし、ゲーム内では「魔王」は使われているが主人公は「あなた」と表現されている)。

勇者と魔王の構図とそこからの脱却について

主人公がラスボスを倒すというストーリー上の構造を「勇者と魔王の構図」と呼ぶとしたら、パソコンのRPGでは、その構図はかなり初期から採用されていて、1985年ごろには、そのありきたりな構図からの脱却をはかる様々な試みがなされはじめていたと言えると思います。

例えば「ウルティマ」シリーズでは、初代「ウルティマ」(1981)から「ウルティマIII」(1983)までがこの構図を採用しています。そして「ウルティマIV」(1985)で、「聖者」になることをゲームの目的とすることで、この構図からの脱却をはかっています。

クリスタルソフトは、初代「夢幻の心臓」(1984.3)のゲーム内で「勇者」と「魔王」の用語を使い、「ファンタジアン」(1985.2)で、これらを主人公とラスボスを意味する単語として位置づけています。

そして、ウィンキーソフトの「アークスロード」(1985.6)などが用語の使い方もふくめてこの構図に追随し、クリスタルソフトは「夢幻の心臓II」(1985.11)で格上のラスボスとして「魔神」という表現を使います。

同時期にSF的なRPGでは、「ザ・スクリーマー」(マジカルズゥ,1985)や「地球戦士ライーザ」(エニックス,1985.11)などが、ラスボスを倒した後に悲劇的なラストを用意するという形で、ありきたりなストーリー展開からの脱却を試みます。

そして、ウィンキーソフトは「ロストパワー」(1986.6)で主人公を魔王にし、クリスタルソフトは「アスピック」(1986.9)で姫を救出後に裏切られる展開を用意することで、ファンタジーの世界でのこの構図からの脱却をはかります。

その他にも、例えば海外製RPGの「ファンタジーIIIニカデモスの怒り」(SSI,1987)(スタークラフト,1988.6移植)では、ラスボスが前半に襲ってきたり、主人公たちがサポート役に位置づけられていたり、最後に善か悪かの選択を迫られたりする、といった多彩なシナリオが展開されたりしています。

当時のRPGを調べてみると、ありきたりな展開から脱却するための様々な試みがなされていたことが良くわかるだろうと思います。

勇者のイメージ

当時のRPGで「勇者と魔王の構図」がよく使われていたことや、当時、「勇者」や「魔王」という単語が珍しくなかったことは、かなり指摘されるようになってきました。今度は、ドラクエの勇者はそれまでとはイメージが違った、というような趣旨の発言をよく見かけるようになりました。

自分は、あまりそうだとは思えないので、当時の使われ方をどの程度調べたうえでの発言なのか、根拠を知りたいところです。当時の使われ方の一例として自分が提供できる資料として、以下に「夢幻の心臓II」のゲーム内で「勇者」という単語が使われているシーンを引用しました。

夢幻の心臓IIで使われた勇者の表現

左の画像は救出した姫との会話で「わかれる」を選択したときのもので「あなたは、本当に選ばれた勇者なのですか?」と批判をされています。夢幻の心臓IIの主人公は伝説の勇者という位置づけ(マニュアルでは例えば「この地に新たなる光をともす伝説の騎士」(p.31)などの様々な表現で形容されていて、のちに魔神と剣を合わせる運命をもつ勇者と解釈できる文章(p.29)も書かれている)だったので、ここでは「選ばれた勇者」という発言になっています。

右上は仲間になるNPCとの会話の例で、エルフが「人間の勇者さま、共にすすみたいと思います」と発言しています。人間の「勇者さま」を慕うエルフというシチュエーションになっているように見えます。

その下は、宿屋の前にいる商人との会話で、「これは立派な勇者のみなさん。お疲れでしょう、どうか、うちに泊まっていってください」と勧誘をしています。立派な勇者の一行が宿屋をおとずれるという状況であることがわかります。

今から確認をしなおしてみると、ライトノベルなどに近い使われ方をしている印象があります。もちろん、当時から小説には「グインサーガ」や「バンパイアハンターD」などの娯楽小説が存在していたので、このような雰囲気の文章はこのゲームが最初というわけではありませんが、こういった「勇者」の使われ方がされていたのです。

それから、上の文章でも説明しましたが、「夢幻の心臓II」では主人公の職業を「勇者」にすることができました。右下の主人公のステータス表示からの引用を見ると、そのことが確認できます。ドラクエIIIでも主人公の職業は「勇者」になったようですが、これはドラクエに固有なものではなく「夢幻の心臓II」で採用されていたものでもありました。

これまで見てきたように、自分には「勇者」のイメージは、ドラクエ以前と以後とで、それほど変わってはいないように思えます。違うという方は、ぜひ広範囲に調査をおこなって、どこがどのように違っているのか、もっと具体的に示して欲しいところです。

ゲームでの日本語と英語の使われ方

パソコンゲームでは、昔から日本語(カタカナやひらがな)が使われることがかなり多くありました。特にアドベンチャーゲームでは、一部の例外(表参道アドベンチャー(アスキー,1982)、機動戦士ガンダムPART-I(ラポート,1984.3)など)をのぞき、ほとんどのゲームで日本語が使われていました。

ミステリーハウス(マイクロキャビン,1982)やデゼニランド(ハドソンソフト,1983.12)のような、英語でコマンドを入力するタイプのゲームであっても、メッセージは日本語で表示されます。スタークラフトの海外移植作品(ウィザード&プリンセスなど)も全てメッセージは日本語でした。

もちろんシミュレーションゲームやロールプレイングゲームでも例えば「信長の野望」(光栄,1983.5)や「夢幻の心臓」(クリスタルソフト,1984.3)、「メルヘンヴェール」(システムサコム,1985.8)などで日本語が使われています。ちなみにPC98版メルヘンヴェールのビジュアルステージでは「漢字」も用いた非常に読みやすい日本語の表示が採用されています。

プログラミング言語のBASICでは、簡単にカタカナ(PC60系やMSXなどの機種ではひらがなも)を表示できたので、雑誌に掲載されていたアマチュアの投稿ゲームなどでも、例えば「あなた」や「トクテン」や「ボーナス」などのような日本語がそれなりに使われていました。

なお、初期のパソコンゲームがカタカナしか使っていなかったかのように言う人もいますが、PC60系やMSXのゲームでは「ひらがな」を使ったゲーム(例えば「黄金の墓」(マジカルズゥ,1983)、「は~りぃふぉっくす」(マイクロキャビン,1984)、「モリコ脅迫事件」(ソフトスタジオWING,1985)など)が普通に存在していました。

一方、1985年ごろまでの初期のファミコンのゲームでは、ごく一部の例外(麻雀や五目ならべや将棋などのゲーム)を除き、英語しか使われていませんでした

タイトルロゴが日本語のゲーム(忍者くん(JALECO,1985.5)、ぺんぎんくんWARS(アスキー,1985.12)など)はありますが、そういったゲームでも、表示される単語としては「PLAYER」や「BONUS」などのような英単語しか使われていません。

初期のファミコンは、カセットの容量や表示用のデータにかなりの制限があり、ハードウエアにカタカナやひらがなのフォントもなかったので、容量削減のために文字数の少ないアルファベットを使わざるをえなかったのでしょう。

例えば、イーアルカンフー(コナミ,1985.4)を解析している下記のツイートの2枚目の画像を見ると、アルファベットの「J」と「X」と「Z」の文字がないことが確認できます。容量削減のためにアルファベットですら使用頻度の低い文字を削る工夫をする必要があった、ということなのだろうと思います。

英語と日本語のどちらが使われているかという話を大人向けか子供向けかなどの話題にからめる事もあるようですが、考察をはじめる前に「当時のほとんどのパソコン用アドベンチャーゲームがメッセージを日本語で表示していたのに対し、初期のほとんどのファミコンゲームは英語しか使っていなかった」という事実をまずは確認していただきたく思います。


ストーリーを語る手法としてのRPGについて

下記のサイトに堀井雄二さんのインタビューが掲載されているのをみつけました。この記事ではRPGでストーリーを語ることについて話題にあがっています。

この記事のコラムでは当時のRPGについてもふれられているのですが、その中に「… NPCと会話できるようになったが、ほとんど挨拶ばかりで …(中略)… 『ウルティマIII』からメタな台詞は減ったが、挨拶ばかりなのはあまり変わらず、これは国内で発売されたRPG『無幻の心臓II』(85年)でも同じであった。」と書かれています(「無幻の心臓」は原文ママ。正しくは「夢幻の心臓」)。

もし仮にこの文章の意図が「NPCのうち主要なストーリーに関係しないモブのセリフに挨拶のようなものが多かった」というのであれば自分も理解できます。それならわかるのですが、この記事の書き方では、まるで「夢幻の心臓II」のセリフが挨拶ばかりでストーリーを語るためのセリフが全くなかったかのようです。しかし、もちろん、NPC全体で見れば、挨拶以外のセリフもたくさんありました

RPGのNPCをおおざっぱに分類すると、ストーリーに関係する重要なセリフを話すキーとなるキャラクタと、画面をにぎやかにするために配置されたモブとにわかれると思います。昔のRPGでは移動しないNPCは前者、歩きまわるNPCは後者、という傾向があったように思います。このうち、後者のセリフについては「ウルティマIII」や「夢幻の心臓II」では挨拶のような単純なものが多かったと言っていいと思います(この点ではドラクエの会話の方が多様でストーリーを補完するようなセリフも多いのは確かにすばらしいと思います)。しかし、前者については、これらのゲームでもセリフで物語を描いていましたし、後者にも機能的なヒントや世界観をふくらませるセリフはありました。

「夢幻の心臓II」と「ドラゴンクエスト」のストーリーの描き方の違いはすでに下記のページにまとめてあって人々との会話についてもふれている(ハイドライドや夢幻の心臓IIなどに存在した宝探しの要素についても書いてある)ので、興味があれば読んでみていただければと思います。

王女を救出するストーリーの流れ

ここでは、上のページにも書いた王女を救出するストーリーの流れについて、これに関係するNPCのセリフがどのようなものなのかを具体的に引用して示したいと思います。

主人公は城の女王から「王女がアーケディア城に行ったまま帰ってきません、心配で、心配で」という話を聞き、破壊された城の地下へいくと、幽閉された女性の周囲にいる兵士たちが「私たちは王女の護衛のわずかな生き残りだ」とか「牢獄にシルヴィア王女が閉じ込められている」などと話します。その女性を助けると彼女は「わたしをサルア城につれて帰りなさい」と言い、話を聞くと「わたしの名前はシルヴィアです」と答えます。

ここで彼女を仲間にしない選択をすると「あなたは本当に選ばれた勇者なのですか?」と批判されて会話が終了します。この会話は彼女を仲間に加えるまで繰り返しおこなえます。

彼女を仲間に加えると周囲の者たちのセリフが「勇者よ、魔神を倒すにはシルヴィア姫をサルア城にかえすことが必要なのだ」というセリフに変わり、シルヴィアを城へつれて帰って女王に会うと「ああシルヴィア、はやくお父様に会いにゆきなさい」と言われます。王様に会うと「よくぞシルヴィアをアーケディア城から救い出してくれた!十分に礼はするぞ!」と感謝の言葉を述べ、シルヴィアは「私は言霊使いの呪文を覚えるため瞑想の部屋にゆきます」と言ってパーティをはなれます。

なお、シルヴィア救出後の女王のセリフは、女王が心配していたことを思い出して救出後にまっさきに女王に会いに行ったプレイヤーしか見ることができません。そういうプレイヤー向けに別のセリフが用意してあるのです。しかも、とても心配するセリフを言っていた女王が、シルヴィアを前にして、すぐ父親に会いに行けと使命を優先する発言をするのです。短いセリフですし今から見れば単純な仕組みですが、とてもよく工夫されていると思います。

上の事例で登場するこれらのNPCのセリフを「ただの挨拶のようなもの」と解釈する人はほとんどいないだろうと思います。少なくとも自分にはセリフでストーリーを語っているように見えます。他にも、例えば人間の世界でエルフの世界のうわさを聞き、そのエルフの世界で見つけた村の入口で歩哨(ほしょう)に止められて追い返され、エルフ城で王と話をして同士と認められる物語の流れなどもありますが、この流れに関係するNPCのセリフもただの挨拶だとみなすには無理がありすぎます。

この例からもわかるように、「夢幻の心臓II」でもNPCとの会話によってRPGでストーリーを語っていたのです。「ウルティマIII」にも少し弱い表現ではあるもののセリフでストーリーを語っている部分はありました。これらのゲームは、短いセリフではあるけれども、一部の主要なNPCのセリフでストーリーが語られていて、「ウルティマIV」や「ドラゴンクエスト」はそれがさらに充実した形になっている、というほうが妥当だろうと思います。

※ちなみに、具体的なセリフの比較のためにドラクエからも引用すると、ドラクエでは姫を連れ帰ったときに王様が「おお○○!よくぞ姫を助け出してくれた。心から礼をいうぞ!」と感謝の言葉を述べます(○○は主人公の名前)。短いセリフながら、両者を比較をするとサルア王の方が気前がいいことがわかって面白いですね。このドラクエのセリフを物語の構成要素のひとつだというのなら、当然、夢幻の心臓IIの王のセリフも同様だといって全く問題はないでしょう。

具体的な例を示すために、「夢幻の心臓II」のNPCとの会話シーンの一部を下に引用しました。左の画像では上で指摘した女王のセリフが確認できます。右の画像では、プレイヤーが設定した名前(ここでは「HAKASE])を使って呼びかけるセリフがあったことが確認できます。このような様々なタイプの会話の仕組みが存在していたのです。

夢幻の心臓IIのNPCとの会話

それから「メタ的なセリフ」(例えば「ゲームちょうだい」など)について、「夢幻の心臓II」ではその多くが「シー」という種族の会話メッセージとして設定されています。シーはとても神秘的でいたずら好きな、ちょっと異質な種族として描かれています。プレイした人の中には、この種族が多く住む「シーの村」のデタラメさが強く印象に残っている人もいるのではないかなと思います。つまり、「メタ的なセリフ」を、単なるお遊びとしてだけでなく、「シー」という種族のもつ特異な性質を印象づける(言いかえれば世界観を描く)ために使っているとも言えるのです。一方で、確かドラクエにもポートピアをドラクエと交換して、という感じのメタ的なセリフはあったと思います。「メタ的なセリフ」が必ずしも世界感を壊すわけではないという点は指摘しておきたいと思います。

ストーリー重視のRPG

他のゲームでは、「地球戦士ライーザ」(エニックス,1985.11)などもストーリー重視のRPGと言えると思います。戦況悪化を伝えるオープニングからはじまり、地球への帰還、少女の救出、つかの間の休息、敵艦の再出現、次々と壊滅する補給基地、超強力な武器の発見、最終決戦、そしてラストの悲しい結末へ、時間の流れの中で物語が次々に展開していきます。システム的には戦闘中心で移動がかなり簡略化されていて、目的地を指定して時空跳躍を繰り返すという、現在のスマホRPGのような手法がとられていました。序盤の難易度が少し高めではありますが、まさに漫画やアニメのようにストーリーを語る手法のひとつとしてRPGが使われた好例だと思います。

このゲームについては一本道傾向の強いRPGに関する話題に関連して「地球戦士ライーザとJRPG」の節で詳しく説明しています。

また、「メルヘンヴェール」(システムサコム,1985.8)などでは章間ビジュアルでストーリーを語っていました。当時の広告を調べると「メルヘンヴェール、私はこの物語を語る手段として、パーソナル・コンピュータを選びました」(PASSWORD,vol2,1985,summer)と書かれています。開発側にRPGで物語を描く意図があったのは明らかでしょう。初代ドラクエと同時期にPCゲームでは「ファイナルゾーン」(日本テレネット,1986.5)が発売されています。この時期にはアクションゲームにもビジュアルシーンが導入され、顔グラフィックと口パクによる会話で物語が表現されはじめていたのです。

ちなみに、海外では、1984年に「King's Quest (キングズクエスト)」(シエラオンライン)が発売されて以降、三人称視点で物語を描くゲームはRPGよりもAVGの方で発展していったように自分には思えます。なお同社はキングスクエストの少し前にも映画原作のAVG「The Dark Crystal (ダーククリスタル)」(1983,静止画内に主人公の絵を描いた三人称視点のAVG)を作っています。1987年にはドラクエよりもさらに小さな子ども向けのAVG 「 Mixed-Up Mother Goose (おかしなマザーグース)」も発売しています。

以下に移植版ではありますが、ダーククリスタルとキングズクエストの画面を引用しました。どちらも三人称視点の表現が使われていたことが確認できると思います。

海外の三人称視点を用いたアドベンチャーゲーム

同社の「キングズクエストV」(1990.11)や「Gabriel Knight (ガブリエルナイト)」(1993.12)などは、アニメとゲームを見事に融合してストーリーを語る素晴らしい作品になっていると思います。海外に物語志向の強いゲームがなかったかのように語る人もいるようですが、語るならシエラオンラインやルーカスアーツなどのAVGについてもよく調べて欲しいものです。

ドラクエIIの仲間のシステムについて

ついでに書いておきますが、先の記事でインタビュアーは「…(前略)…『ドラゴンクエストII』では冒険の途中で仲間が増えるのが画期的ですね。」と問いかけています。しかし、ドラクエ2よりも前に「夢幻の心臓II」や「覇邪の封印」で同じことはやられていましたし、古くは「ポイボス」なども仲間を増やしていく形のRPGでした。他の方の言葉をかりて問いかけているので、おそらくこれらのゲームも知っていたうえで、話を引き出すきっかけとして話題にあげただけなのだろうと思います。ですから、この問いかけを拡大解釈して、この要素はドラクエ2が最初にやった画期的なものだった、などと間違ったことを言って広めたりしないように注意をしていただければと思います。

なお、ネット上には夢幻の心臓IIの仲間のシステムを、ストーリーと全く関わりのないただの傭兵システムでしかないかのように言う人もいるようです。しかし、上や他の文章でも示したように、シルヴィアは仲間のひとりとしてストーリーに深く関わっていました。シルヴィアほどではないですが、例えば幽霊船に行くのに船乗りを仲間にする必要があったり、ドワーフを仲間にしているとエルフの村に入れないなど、候補は複数いるもののストーリーと関わる仲間もいました。ネット上の間違いにまどわされないよう注意をしていただければと思います。

サマルトリアの王子が途中でパーティから勝手に離脱するイベントは当時のRPGにない画期的なものだったと言っている人もいました。そんなイベントあったかなと思って調べてみたところ、このイベントはオリジナルのファミコン版には存在せず、1993年にスーパーファミコン用にリメイクされたときに追加されたもののようです。皆さんもご存知の通り、この時期にはもうこの種のイベントはありふれた演出のひとつになっていました。

上で紹介した記事は、自分なんかよりもくわしく調べて書かれたとても素晴らしい記事だとは思うのですが、あくまでもはじめから堀井雄二さんを中心にすえて書かれたもの(インタビュー記事なので当然ですが)です。ゲームの歴史の一部を紹介した貴重な記事ではあるけれども、上のドラクエ2の話からもわかるように、そのことを前提にして読むべきものなんだろうと思います。そして、自分がここで書いている文章も「ドラクエに関する話題によって過去のPCゲームに対する誤解が広がるのをふせぎたい」と考えて書いているものなので、もちろん、そのことは前提にして読んでいただければと思います。


復活の仕組み

最近書かれたページに、まるで当時のパソコンRPGが、ウィザードリーなどと同様に死んだら復活できないものばかりだったかのように書いているページもみつけました。しかし、以前書いた「それまでのCRPGでは主人公が死んだらどうなったのか?」の所でも指摘しましたが、当時のパソコンRPGでは、死んだキャラクタがロストするゲームはすでに少数派になっていました。

また、「ハイドライド」(1984)にセーブ機能がなかったかのように書いている人も数名いましたが、PC88ディスク版ではゲーム中にいつでもどこでも簡単なキー操作で一瞬にしてデータのセーブやロードができました。セーブスロットは10個あって指定可能でした。主人公の位置やパラメータだけでなく敵の位置や体力なども完全に保存され、復元できるものになっていました。ラスボス戦でもこの機能が使えたので、極端なことを言えば、アクションゲームがとても下手な人であっても、何回かに1回、ラスボスに1撃でもダメージを与えて安全地帯へもどることができさえすれば、セーブとロードを駆使して安全にこの作業を根気よく繰り返すことで、誰でもラスボスを倒せるようになっていました。

オートセーブの機能について、ドラクエよりもずっと後だなどと書いているページもありましたが、これも「夢幻の心臓II」や「ザナドゥ」などですでに採用されていました。この手法には欠点がなかったわけではないですが、ドラクエの前に存在していたのは明らかな事実です。

城での復活の前例

それから、ドラクエの城で復活する方式とほぼ同じものは「ウルティマIV」(1985)ですでに採用されていました。プレイヤーが死ぬと、体力や状態異常などが回復した状態で城の王座の前へと移動し、食料と所持金は初期値にもどされますが、アイテムや経験値などは失われずに復活する仕組みになっていました(GOGで無料で配布されているDOS版で実際の詳細な動作を確認しました。APPLE II版はプレイ動画で復活する様子を確認しただけで細かな挙動までは調べてはいませんが、おそらく同様だと考えていいだろうと思います)。

※ちなみに、当時はクリアできない状態でセーブできるゲームも多かったので、プレイヤー自身が予備のセーブデータを作ったり、タイミングをよく考えてセーブしたりすることで対応をしていました。「地球戦士ライーザ」(エニックス,1985.11)などは「H.Pが ひくいときは セーブしないように」と警告は出ますが最終的な判断はユーザにゆだねていました。もちろん、例えば「リザード」(クリスタルソフト,1984.12,アイテムを何度も入手可能,拠点セーブ型)のように、セーブによってクリア不可になることがほぼないRPGもありました。「ウルティマIV」はこれとは別の方法でこの問題を解消したと言えるかもしれません。

最近指摘されはじめているように、「経験値&レベルアップの仕組み」と「セーブ&ロードの仕組みまたは復活の仕組み」との組み合わせは、謎さえ解ければクリアできることを保障する仕組みのひとつとも考えられるわけですが、初期にこれら全部を採用した「ウルティマIV」の先見性は素晴らしいですね(謎の部分はかなり高度で面倒な要素も多かったですが、それを除けばクリアできることは保障されているので、その高度な謎解きに集中して遊ぶことができるゲームになっていました)。

上記のことがある程度確認できる資料として、以下に「ハイドライド」と「ウルティマIV」の画面を引用しました。

当時のRPGの途中からの復帰方法について

左は「ハイドライド」のキー操作説明画面、右は「ウルティマIV」の城で復活したときの画面から引用したものです。左の画面からはハイドライドにセーブ・ロードの機能があったことが確認できます。右の画像は少しわかりにくいですが、メッセージを読むと、王様のロードブリティッシュがプレイヤーの霊魂と財産を虚無から引きもどし、今後はもっと気をつけるようにと注意をしている様子が確認できると思います(画像はDOS版のものですがAPPLE II版も同じセリフです)。

復活の役割を王様にわりあてているところや、死んでしまったプレイヤーに注意をしているところなど、ドラクエにとてもよく似ています。これについては、むしろ既存のゲームの仕組みをそのまま使っている部分ともいえます。この復活の仕組みをドラクエが最初に採用したととれる文章を書いている方々には、ぜひ「ウルティマIV」の復活の仕組みについて再確認をしていただければと思います。

インタービューの扱い方について

下記のサイトに初代ドラクエの作者のひとりの堀井雄二さんへのインタビュー記事があって、その中にも死んだときの動作について述べている場所がありました。

この記事で堀井雄二さんは「『Wizardry』みたいに一度死んだら取り返しのつかない内容にはしないで(笑)」と述べています。ここで注意してほしいのは、彼がこのインタビューでWizardryの方法は採用しなかったという趣旨の話しかしていない点です。自分で考えたとか、ドラクエがはじめて採用したとかは、ひとことも言っていないのです。勝手にそうであるかのように解釈するのは失礼にあたるでしょう。 出来上がったゲームを見てわかる事実としては「Wizardryみたいにではなく「Ultima IV」みたいに死んでも取り返しがつく内容になっていた」わけです。

でも、これは嘘をついているわけではなく、ただ単にウルティマIVについて触れていないだけです。こういうことはインタビューではよくあることなので、勝手に拡大解釈しないように注意が必要でしょう。誰かが何かを工夫したと回答していたとしても、それより前に同じ工夫をしていた人がいなかったとは限らないのです。

インタビューの記事は、当時の様子や考えを知るとても貴重な情報のひとつですが、あくまでも対象となった人の経験や見解や記憶に頼ったものになります。また、掲載誌や読者へのリップサービスで答えている場合や、大人の事情で語られたのに削除されている場合なども、あって当然のものです。事実を確認しながら適切な距離感をもって扱うことが必要でしょう。

ちなみに、このインタビュー記事の感想としては、インタビュアーの大げさな問いかけに対して、多少ひっぱられつつも、今思ってることを素直に説明されているんだろうなという印象でした。ただ、当時の国産PCゲームについて一切ふれない点がいつもどおりで個人的にすごく残念でした。あと、編集部側が書いている「注」や話を誘導する「問いかけ」の部分などは、かなり大げさに持ち上げて書かれているので割り引いて読むべきだと思います(新作の宣伝のための販促記事的な側面もあって話を持ち上げる必要があるんだろうし、インタビュアーにも当時の知識はあまりなさそうな感じなので、しょうがない面もあるとは思いますが)。

パスワードによる復帰

それから、ドラクエではもうひとつの復活方法として「ハイドライド・スペシャル」(東芝EMI, 1986.3)ですでに採用されていたパスワード方式が使われていて、それを「復活の呪文」と表現する工夫がなされていました。このような世界観にあわせた表現上の工夫は「ザ・スクリーマー」(マジカルズゥ, 1985)に多く見られます。

「ザ・スクリーマー」の主人公は登録制の「賞金かせぎ」なのですが、その設定が様々な場面で生かされていました。例えば、ドラクエではシステム的な手続きにすぎない最初の名前入力は、門番が名前を聞いて新人スクリーマーをリストに登録する場面として描かれています。お金の入手とレベルアップは、FRDと呼ばれる「戦いの様子を録画する装置」で記録した情報を「首屋」に見せ、賞金を獲得してハンタークラスを認定してもらう形になっています(しかもこの装置はストーリー上重要な意味も持っています)。フロッピーディスクの入れかえも、入口を開けるために許可証を入れる場面として描かれていました。ただし、途中からの復帰については、ゲームオーバーになったらセーブデータが完全に消去されるという、この時期にはめずらしく厳しいシステムが採用されていました(一時中断のためのセーブは街から出る行為として表現されている)。

なお、ファミコン版の「ハイドライド・スペシャル」よりも前に、MSX用のROM版「ハイドライド」でもパスワード方式による復帰の仕組みは採用されています。発売は1985年11月のようです。ちょうどドラクエの開発が始まったと思われる時期にパスワード方式のRPGが発売されていたわけですね。

※ドラクエがエンディングの参考にしたと言われている「Questron (クエストロン)」(Strategic Simulations, 1984)も調べてみたところ、こちらは主人公が死ぬと魔法使いが地上で復活させてくれるという形式のようでした。ただ、経験値にペナルティがあったかまでは確認できませんでした(クエストロンにはオートセーブの機能があったようなので、それがロードされている可能性もあります)。

表現上の工夫は確かにされていますが、初代ドラクエの復活の仕組みそのものは、すでに存在していた海外RPGの「ウルティマIV」と、MSXの「ROM版ハイドライド」の方式を採用しただけで、評論家風の人たちが最近言いはじめたようなドラクエによる革命でも発明でもなんでもなかった、というのが結論のようです。

パソコンRPGのセーブ機能

コンシューマゲーム機と比べて、パソコンでは保存媒体としてフロッピーディスクが使えたので、セーブ・ロードの機能は昔からとても充実していました。

例えば、コマンド入力式アドベンチャーゲームなどでは、ハマりの状態があるかわりに、いつでもどこでもセーブができ、セーブスロットも10個くらいあることが普通でした(ただしディスク版に限ります)。

RPGでは、初期に大ヒットした「ハイドライド」が同様のシステムを採用していました。そのせいもあって、フィールド上であれば、いつでもどこでもセーブができる、というのは多くのRPGで採用される定番の要素になっていました(イベント中や戦闘中などの例外は除きます)。例えば、知名度も評価も残念ながらあまり高くなかったマイナーなRPG「ヨトゥーン」(ザインソフト,1988.3)などですら、セーブ・ロードはいつでもできる形式でした。

セーブスロットについては、ゲームシステムが複雑になっていくにつれて、1か所だけにしかセーブできないものも多くなっていきます。「夢幻の心臓II」などはこのタイプですね。ですが、セーブ用のディスクはプロテクトがなく簡単に複製できるものが多かったので、新しいブランクディスクを購入することで、複数のセーブデータをもつことは比較的容易でした(システム的にコピー機能がそなわっていたゲームもありましたし、ゲームにその機能がなくてもパソコンに付属のコピーツールで複製できるものが結構ありました)。

その後、1980年代の後半に入ると、例えば「エメラルドドラゴン」(グローディア, 1989.12)や「ドラゴンスレイヤー英雄伝説」(日本ファルコム, 1989.12)などのように、いつでもどこでもセーブができ、かつ、複数のセーブスロットを利用できるRPGが、再び発売されるようになっていきます。どちらも1枚のユーザディスクで10箇所のセーブができました(英雄伝説では3枚のシナリオディスクのコピーをそれぞれユーザディスクとして使用するので合計30箇所にセーブ可能)。これらのRPGはイベントが豊富だったので、その直前のセーブデータを残しておくことで、後からイベントを見返したり、ゲームクリア後にイベントを順番に再プレイしてストーリーの盛り上がる部分だけを通して楽しむ、といった遊び方もできるようになっていました。

ちなみに、ドラゴンスレイヤー英雄伝説では、ゲームオーバーになると、最後に出た町に戻るか、戦いの直前に戻るか、セーブデータをロードするかを、選べるようになっていました。もちろん、ロードするスロットは10個の中から選択できました。PCゲームの途中からの復帰の仕組みは遊びやすいように継続的に改善されていっていたわけですね。

これに対して、ファミコンなどのコンシューマ系のRPGでは、バッテリーバックアップが使えるようになってからも、拠点セーブ型でセーブスロットもせいぜい3~4個程度だった時期が、しばらく続いていたようです。クイックセーブを採用した「ハイドライド・スペシャル」などもありましたが、ハードウェアの限界などもあったのか、セーブ・ロードの仕組みについては、当時はあまり充実していなかったと言えるだろうと思います(自分はファミコン等にはくわしくないので間違っていたらすいません)。


漫画的な表現

ドラクエで漫画的な要素がはじめてRPGに取り入れられたなどと書いている人もいるようですが、上でも述べた「ザ・スクリーマー」は、それこそパッケージの前半が漫画になっていて、その続きがゲームで遊べるという形で販売されていました。漫画がついたRPGが売られているのに、当時のRPGが漫画を意識していなかったなんてことは、ありえないでしょう。

遊びやすさという点では、「ザ・スクリーマー」は難易度や戦闘システムなどに難がありました。しかし、劇画調のグラフィックやとてもセンスのあるセリフまわしなど、雰囲気づくりに関しては抜群にすばらしいゲームでした。一部を引用すると、例えば名前の登録画面では「OK! ボーイ。おまえの なまえをいいな。そのしゅんかんに スクリーマーの いっちょあがりって わけさ」、塔に入るときには「よう、ボーイ。きょうも おつとめかい? まいど ごくろうなこったが、 まあ しっかりかせいでくるんだな。」など、まるで漫画のコブラなどに出てきそうなセリフが表示されていました。

また、敵は遺伝子操作で作られた不気味な生命体と警備ロボットが中心で、西洋風のありきたりなモンスターとは一線を画すものになっていました。特に遭遇時に表示される劇画風の敵のイラストはとてもすばらしく、現在でも十分に通用すると思えるほど質の高いものでした。

ゲームの日本人向けローカライズの歴史について何か書くなら、「夢幻の心臓II」や「ザ・スクリーマー」などについてもきちんと調べるべきでしょう。ドラクエだけを見て文章を書いても大嘘だらけの間違った歴史を広めることになりかねません。

パソコンゲームでは、AVGまでふくめれば、漫画やアニメの要素はそれこそ「幻魔大戦」(1983.3)などのころから存在していて、エニックスが「ウイングマン」(1984.11)を発売した時期にはすでに原作漫画とほとんど遜色のない画像やセリフが使われていました(ドラクエの「コマンド?」と同じ役割のプロンプトを「ケンぼうどうするの?」というあおいさんのセリフにするほどのこだわり方をしていました)。


スタート地点の工夫

「夢幻の心臓II」のスタート地点について、視界が全てふさがれた森の中から始まる様子を示して、まるでとても理不尽だったかのように書いているページもありました。確かにドラクエと比べると少しRPG経験者向けになっているとは思います。しかし、夢幻の心臓IIのスタート地点で路頭に迷ったなどという話は聞いたことがありません。

それも当然のことで、あらためて考えてみると、実際にはプレイヤーを街や城へとうまく誘導するよくできたデザインになっているのです。そのことを示すために、スタート地点周辺のマップを再構成したうえで下に引用しました。

夢幻の心臓IIのスタート地点の周辺マップ

スタート地点の森は、プレイ画面では視界がふさがれていて広大に見えるかもしれませんが、主人公の大きさを1とすると基本部分はおよそ5×5程度しかなく、実はとてもせまいことがわかります。また、上図で示したスタート地点周辺には最初は敵が配置されていないため、しばらくはこの周辺を敵に会わずに歩き回ることができます。

北側や東側は見晴らしがよいため、数歩進むだけですぐに街や城があることに気づけますし、南側半分は全体が海や川で囲まれているため、仮に森の南側へ出たとしても、結局は北東か北西のどちらかへ進むしかない構造になっています。そして北東へ進む場合、街と山の間隔がせまいので、意図的に避けない限り必ず街へ寄る形になっています。

夢幻の心臓IIでは、森や山などでさえぎられた部分は視界が制限されるシステムが採用されているため、図の黄色い矢印のルートを通ったときに限り、街などを見つけられずに先へ進めてしまいます。しかし、その先にはガーゴイルやゴブリンなどの強敵が配置されていて、避けなければ戦闘になります(自分がプレイしたPC88版では最初に「ガーゴイル」と出会う配置になっていました)。

ガーゴイルは麻痺などの特殊攻撃を持っていて、仲間がいない状態で逃げずに戦闘を続けていると、特殊攻撃にかかった時点で一瞬にしてゲームオーバーになります。夢幻の心臓IIでは死んでもキーをひとつ押すだけで、簡単にセーブ地点からゲームを再開でき、一度もセーブしていなければもちろんスタート地点からの再開になります。つまり、ガーゴイルについてよく知らず、仲間もいない最初の段階で北西へ進むと、すぐにゲームオーバーになってスタート地点へ戻されることになるのです。 多くの人はそこで最初とは別の方向へ進むと思いますが、そうすればすぐに街や城が見つかる仕組みになっているわけです。

街や城では仲間を雇ったり「ガーゴイルに気をつけろ」というセリフを聞いたりできます。これでガーゴイルに注意すべきだとわかりますし、街などを出るとオートセーブされるので、仮に再度ガーゴイルにやられても今度はスタート地点ではなく街などから再開できます。おそらく、最初に街などへたどりつけずに迷う可能性があるのは「ガーゴイルをうまくやり過ごしてさらに先へ進んだ場所で手作業でセーブしてしまった時」くらいしかないでしょう。

これは見方を変えれば、スタート地点周辺を海と山と強敵で囲んでその中に主人公を閉じ込めることで、街や城へ誘導する形になっているともいえます(しかも敵がシンボルエンカウントで移動するため、時間が経過するとこの囲みは消えてなくなる)。昔プレイした当時は全く気づきませんでしたが、あらためて考えてみると、マップの構造、シンボルエンカウントでの敵の配置、セーブ・ロードのシステム、の3つを使って、とてもうまく誘導する形になっていることがわかると思います。

この仕組みは、プレイヤーの選択によってプレイ体験が異なる可能性があることも示唆しています。例えば、プレイヤーによっては、すぐに街が見つかることもあれば、海沿いに歩いて街を見つけることもあります。いきなりガーゴイルの洗礼を受けることもありますし、出会う前に街を見つけて情報を得ていたのに逃げずに戦闘を続けてやられるケースもあるわけです。これはいわゆる「ナラティブ」な要素と言えるかもしれません。まるでレベルデザインのお手本のような素晴らしい構造になっていると思います。これがどこまで意図的だったかはわかりませんが、「夢幻の心臓II」のスタート地点もドラクエとは別の意味でですが、とてもよくできていたと言えるでしょう。


序盤のレベルアップ

ドラクエについて調べていると、最初のレベルアップに必要な経験値を減らすことで序盤のレベルを上がりやすくした点を強調しているページをよく見かけます。確かに当時のPCRPGと比べて序盤のレベルは上がりやすいのですが、「夢幻の心臓II」などと比べて極端に上がりやすかったわけではないと思います。

最初にレベルが1から2へ上がるまでに必要な戦闘回数について、初代ドラクエが「スライム」や「スライムベス」相手に7回なのに対し、「夢幻の心臓II」では「ゾンビ」相手に10回(「ブロッブ」相手に15回、「トリロイド」相手に6回)になっていました。しかも夢幻の心臓IIではゲーム開始時の所持金で余裕をもって買える防具(鎖の鎧以上)を装備していれば、これらの敵からはほとんどダメージをうけませんでした(トリロイドは毒にかかると厳しいですが。ちなみに、ドラクエでは最初に買える防具では普通にダメージをうけていました)。

敵との遭遇システムが両者で異なっているため単純な比較はできませんし、ドラクエより平均の戦闘回数が少しだけ多いのも事実ですが、夢幻の心臓IIも序盤はかなりレベルが上がりやすいゲームバランスになっていたのです。

ドラクエには開発時に最初のレベルアップの必要経験値を20から7へ変更した経緯があるようです。そこから、これが特別なものだという話が広がったのだと思います。20だと「夢幻の心臓II」の平均とくらべても2倍の戦闘回数が必要なわけですから、「夢幻の心臓II」のプレイ経験者であれば、これを多すぎると判断するのも当然だろうと思います。それにしても、ドラクエの開発者ですら最初は20回を想定する時代に、平均とはいえ10回程度の戦闘で最初のレベルアップを実現していた「夢幻の心臓II」は本当にすごかったんだなと思います。

※ちなみに、夢幻の心臓IIのレベルアップのシステムは、経験値が255をこえるとレベルが上がってゼロにもどる(超過ぶんは上乗せ)というもので、敵から得られる経験値の量は各キャラクタのレベルとパーティの人数に応じて決まる(レベルが高く人数が多いほど敵から得られる経験値が減る)形式になっていました。そのため、主人公を強くした後でパーティ内の人数を減らして強敵を倒しまくることで、レベルの低い仲間の序盤のレベルアップを効率的におこなうことができました。レベルが上がってくるとドラクエと同様に経験値かせぎが大変になってきますが、スペースキーを押しっぱなしにすれば自動的に戦闘を繰り返して経験値かせぎができるのは有名な話ですね。

レベルアップのタイミング

それから、当時のRPGのレベルアップ、能力上昇、魔法習得などのタイミングには様々なタイプがありました。

例えば初代「ウィザードリィ」は宿での宿泊時、「ウルティマIII」は戦闘中に個別に敵を倒した瞬間、「ウルティマIV」は王との謁見時にレベルアップする方式でした。能力上昇も例えば「ウルティマIII」では寺院への所持金の投入、「クエストロン」ではミニゲームなどのイベントで行います。魔法習得は「ウルティマ」のIやIIでは店での購入、IIIは最初から覚えていて魔力があれば使用可能、IVはレベルアップと秘薬集めで使えるようになりました。「ハイドライドII」はレベルアップで使えるようになりますが魔力は店での購入、「ファイヤークリスタル」は魔法用の経験値でのレベルアップで習得する形でした。

一方、「夢幻の心臓II」などでは戦闘終了時に短いメロディとともにその場でレベルアップし、能力が上昇して魔術師などが新たな呪文をひとつ覚えるという、とてもシンプルな方式(魔法の扱い以外は「ブラックオニキス」や「ハイドライド」も同様)が採用されていました。ドラクエでは「夢幻の心臓II」などで使われていたのと同じ方式が採用されているわけですね。


スタッフロールとエンディングの演出

当時のアドベンチャーゲームやロールプレイングゲームのエンディングについて、単にCongratulationsと表示したり一枚絵を表示したりするだけで、ラストに余韻が全くなかったかのように書いているページもありました。

しかし、当時、すでに「ザ・スクリーマー」や「地球戦士ライーザ」などでは、紙芝居のように何枚も絵を表示しながらラストの物語を印象的に描くビジュアルシーン風の手法がすでに採用されていました。

また、アーケードゲームの例だけをあげてスタッフロール自体がとてもめずらしかったかのように書いている人もいました。しかし、T&Eソフトなどはかなり初期からゲームにスタッフロールをつけていて、もちろん「ハイドライドII」にもつけていました。

当時のRPGのエンディングやスタッフロールについては、すでに下記のページで「夢幻の心臓II」との比較の形で話題にあげているので、興味があれば読んでみていただければと思います。

最後にスタッフを表示する演出(スタッフロールやエンドクレジット)について、上のページでは「ハイドライドII」や「アメリカントラック」の例を紹介していますが、これらの他にも、例えば「ザ・スクリーマー」では衝撃的なラストの後、無音の中でたんたんとクレジットが表示されるところに何とも言えない余韻がありました。「パラディン」(ボースティック, 1985.12)もBGMがBEEP音ですがラストに音楽と同期して終わるエンドクレジットがついていますし、「ブラスティ」(スクウェア, 1986.4)もエンディングでFM音源のBGMにのせてスタッフが表示されます。

アドベンチャーゲームでは「デゼニワールド」(ハドソンソフト,1985.12)や「ウイングマン2キータクラーの復活」(エニックス,1986.4)でも最後にスタッフロールが流れていました。その証明をするために、例として下図に画面を引用しました。どちらも画像とともにスタッフが表示される形式が採用されていて、映画のラストのような演出になっていることが確認できます。AVGやRPGでは、この時期にはもうエンディングでスタッフを表示する演出はそれほどめずらしくはなかったと言えると思います。

アドベンチャーゲームのスタッフロールの例

自分も当時、上の2つのAVGはプレイしています。「デゼニワールド」ではスタッフロール後のひとことに映画のような余韻と達成感がありましたし、「ウイングマン2」では印象的なBGMとともに別れのメッセージが表示されるラストの演出に目をうるませていました(作曲はすぎやまこういちさんが担当している)。当時のAVGやRPGのエンディングに「余韻がなかった」などとは、とても思えません。パソコンゲームでは、ドラクエが発売される少し前の時期には、独自に様々な工夫をこらし、ラストにドラマチックな展開を用意したり、スタッフロールを流したりして、衝撃や余韻を与えるゲームが次々に登場しはじめていたのです。

ちなみに、「デゼニワールド」は、難易度をおさえてギャグを見せることを中心にすえたアドベンチャーゲームでした。ラインペイント方式やコマンド入力方式など、この時期にしては古いシステムを採用していたことや、比較的簡単にクリアできてしまったこともあり、人気はそれほど高くなかったように思います。ですが、映画をかなり意識した作りで、ギャグを見せるためだけのシーンや映画のパロディネタも多く、多少いきづまる所はあるにせよ、難解な言葉探しもほとんどなく、当時のノリをわかっているプレイヤーにとってはとても遊びやすく楽しめるゲームでした。さらに、パッケージにはテーマソングなどが録音された音楽テープが付属していて、曲の間には短いですがドラマCD的な音声による小芝居も録音されていました。1985年の年末ごろには、すでにこのような方向性のゲームが存在していたのです。

なお、開発者の名前についてアーケードゲームでは偽名を使うなどして隠すことが多かったという話をよく聞きます。一方、PCゲームでは、タイトル画面に名前やイニシャルやペンネーム(一時的に使われる偽名ではなく本人が決めた別名)を載せることが多くありました。

例えば「オールキャストスタートレック」(コムパック, 1982)、「スパイ大作戦」(PONY, 1982)、「南青山アドベンチャー」(アスキー, 1983.4)、「ヴォルガード」(dB-Soft, 1984.7)、「EGGY」(ボースティック, 1985.2)など、他にも多くのゲームで確認できます。「暗黒星雲」(FM-7版,T&E,1983.12)ではオープニングとエンディングの両方でスタッフロールを流していました。PCゲームには開発者の名前を示す文化があったといえると思います。

※あと、PCゲームの話で、たまに有名な開発者が堀井さんしかいなかったかのように話す人がいますが、当事に有名だった開発者は他にもたくさんいました。例えば、芸夢狂人さんや、日高徹さん、高橋ピョン太さん、ハドソンソフトの竹中コンビや、T&Eの内藤さん、日本ファルコムの木屋さん、クリスタルソフトの富さん、ランダムハウスの森田さんや山口さんなど(他にも多数)で、雑誌や広告などにもよく名前が出ていました。ARPGでの内藤さんの人気はとても高かったですが、それぞれ得意分野などに違いもあったので、ひとりだけが極端に突出していて他は全然知られていない、なんてことはありませんでした。ちなみに小学生のころの自分は竹中コンビにあこがれていました。ひとりの開発者に注目することも(前提を述べたうえであれば)悪いことではないと思います。ですが、歴史を語るなら、偏った情報だけでなく、全体を把握することも、とても重要だろうと思います。

ちなみに、パソコンゲームにおける「クリアできるゲーム」の話を「国産RPGクロニクル」という書籍に関連した記事について書いた下記のリンク先で書いています。興味があれば読んでみてください。


一本道か自由度か

初代ドラクエについて、RPGの物語的な側面として、シナリオが一本道なところが当時なかった特徴だった、という趣旨の指摘をよく見かけます。その一方で、オープンワールドやナラティブに関する話題では、初代ドラクエに自由度があった点を、まるで固有の特徴であったかのように書いている文章も見かけます。

「一本道であること」と「自由度が高いこと」は、どちらかを強めればどちらかが弱くなるような相反する要素です。なぜ矛盾する2つの要素がドラクエの画期的な点としてとりあげられてしまうのでしょうか?

初代ドラクエを確認すると、おおまかなストーリー展開はほぼひとつなのですが、細かな部分では順序が自由だったり並行して進められたりする部分がある形になっています。言いかえれば、一本道と自由度の両方の要素があるゲームになっているのです。つまり、おそらくドラクエが画期的だったと言いたい気持ちが強すぎるために、この2つの特徴のうち、一方の側面を無視してしまっているのだろうと思います。

では、当時の他のRPGはどうだったかというと、ゲーム中で物語を描いているものであれば、程度の差はありますが、どのRPGも基本的にはこの両方の特徴を持っていました。自由度が高いと言われている初代「ウルティマ」ですら、終盤は「宇宙船を入手する」→「宇宙のエースの称号を得る」→「タイムマシンに乗る」→「過去へ戻ってモンデインを倒す」というように、順番がひとつに限定されたストーリー展開になっています。

「夢幻の心臓II」では、サイクロプスを倒さないと銀の偶像を入手できず、その偶像がないと姫を救出できず、姫を救出した後でないと、魔神の世界への入口にたどりつけない、というように、ゲームの序盤に順序を強制するストーリー展開がふくまれていました。また、攻略の順序(人間の世界→エルフの世界→魔神の世界)を、出現する敵の強さである程度コントロールすることもしていました。

これらのゲームと比べたら、ドラクエのストーリー展開は1本道の傾向が強いとは思います。ですが、例えばARPGの「メルヘンヴェール」(1985.8)などは、部分的な攻略方法はいろいろあるものの、ストーリー展開に限れば、ドラクエよりもさらに1本道の傾向が強いと言っていいと思います。メルヘンヴェールのフィールドは複数のエリアが連結された構成になっていて、ゲームが進むごとにエリアがひとつずつ解放され、そのタイミングでビジュアルステージの文章によって物語を描くという構造になっています。面クリア型のアクションゲームなどとは違い、前のエリアに戻ってアイテムを探索したりできるような自由度はありました。しかし、物語の展開は1本道のゲームだったと言えると思います。

また、上にストーリ重視のRPGとして書きましたが、「地球戦士ライーザ」なども、漫画やアニメのようなノリで物語を描いた1本道の傾向の強いRPGと言えるでしょう。

一本道か自由度かという視点については、初代ドラクエに限らずストーリーのあるRPGならたいていは両方の特徴を持っていて、どちらの傾向が強いかがゲームごとに異なっているということなのだろうと思います。

地球戦士ライーザとJRPG

ちなみに、「地球戦士ライーザ」(エニックス,1985.11)は、いわゆる「 JRPG 的な特徴」をもつゲームでした。

このゲームは、異星人の侵略により危機におちいった地球を救うため、主人公とその相棒がロボットを駆使して戦う奮闘を描いたSFRPGです。物語主導の世界、1本道の傾向の強いストーリー、個性的な登場人物、シンプルなゲームシステム、そして、日本アニメ風といえるアートワークをもつゲームでした。 主人公は「子ども」ではないですが「若者」ですし、美少女とロボットという80年代日本アニメの定番ともいえる要素もふくまれています。

下図にマイコンBASICマガジン1986年3月号に掲載されていた「地球戦士ライーザ」の紹介記事(p.244)を引用します。アニメ調のアートワークや個性的なキャラクタが登場することが確認できると思います。 まさに「西洋のRPGとは違う東洋のJRPGの特徴」として現在語られている数多くの要素をふくむゲームだったのです。

日本のアニメ文化をRPGへ取り込んだ地球戦士ライーザ

コンピューターゲームにおける日本製の漫画やアニメの要素は、初期にはキャラクタを登場させたり物語の中のひとつの場面をゲーム化する程度だったと思います。その後、アドベンチャーゲームの中で、「幻魔大戦」(コムパック,1983.3)や「機動戦士ガンダムPART-1」(ラポート,1984.3)のようなストーリーを追体験するタイプのものが登場します。

そして、「ななこSOS」(徳間書店,1984.6)や「ウイングマン」(エニックス,1984.11)のような既存の漫画やアニメの世界でオリジナルのストーリーを展開したものや、「ザース」(エニックス,1984.8)や「英雄伝説サーガ」(マイクロキャビン,1984,8)などの、日本アニメ風のアートワークを持ちながら、世界観や登場人物もふくめて内容を完全にオリジナルにしたアドベンチャーゲームへと発展します。

日本のPCゲームでは1980年代中盤に人気のジャンルがアドベンチャーゲームからRPGへと移るのですが、その際にこの傾向がRPGへと引き継がれます。そして「ザ・スクリーマー」(マジカルズゥ,1985)や「地球戦士ライーザ」(エニックス,1985.11)などのような、漫画やアニメ的な要素が強く取り入れられたRPGが登場するわけですね。

もちろん、同時期に様々なタイプのAVGやRPGが登場して互いに影響しあっていくわけですが、一本道傾向の強いRPGは、このような一連のゲームの歴史の流れの中で生まれたものだと言えると思います。

なお、他の文章でもいろいろと書いていますが、「地球戦士ライーザ」はストーリー性が高く、導線が明確で、操作も非常にシンプルなRPGでした。中盤には大きな画像を用いたカットシーンが挿入されて物語が語られます。基本操作もメニューからコマンドを選ぶだけで簡単に遊べます(例外は最初の名前の入力と一部の数値入力のみ)。

ストーリーの各段階での行動の目的もはっきりと明示されるゲームでした。例えばオープニングで地球へ帰還するという目的が示され、地球に到着するとバリアーで降りることができないとわかり、途方にくれていると敵の指令船を倒せという地球軍指令の放送を受信する、といった感じで、ゲームの導線がとても明確なゲームになっていました。

また、非常に親切な設計のゲームでもありました。メニューの中にはパラメータなどに関する説明を読む機能がついていましたし、敵の情報を閲覧する施設なども登場します。マニュアルに掲載するような内容をゲーム内でも閲覧できるようにしていたんですね。

移動の仕組みは少し特殊ですが、プレイヤーができることは項目の選択だけなので、いろいろと試せばそれもすぐに理解できるだろうと思います。しかも、上で引用した記事を読めばわかるようにマッピングの必要もありませんでした。操作が簡単でサポート機能も充実していたので、紙のマニュアルを読まなくても十分に遊べるゲームになっていました。

ただし、HPや弾数などのリソースの管理はそれなりによく考えて遊ぶ必要があります(そこがこのゲームのRPGとしての楽しさのひとつでもあるわけですから)。また、HPが低いときなどにセーブをするとクリアできなくなるなどの問題はありました。ですが、セーブをするときに「H.Pが ひくいときは セーブしないように」という警告がきちんと表示されるようにもなっていました。

物語主導や一本道の傾向が強い点だけでなく、大きな画像を使ったカットシーンが挿入される点やメニュー形式のコマンド選択を採用している点などを見ても、「地球戦士ライーザ」は物語的な要素の強いアドベンチャーゲームの特徴を取り入れた遊びやすいRPGだったと言って良いだろうと思います。


戦闘シーンの視点表現

ドラクエとファイナルファンタジー(以後FFと表記)の戦闘システムの違いから、FF以前の当時のRPGの戦闘は1人称視点ばかりだったのかな、とか、ドラクエが出てから1人称視点ばかりになったのかな、などと考える人もいるかもしれません。

ですが、PCゲームでは初期のころからRPGの戦闘システムには1人称視点のものと3人称視点のものの、両方が存在していました。また、ドラクエ発売後も3人称視点の戦闘を採用したゲームは出続けていました。

ドラクエ以前に存在した3人称視点の戦闘システムには、単に主人公と敵のパーティを絵で表示したもの(「ザ・ブラックオニキス」(BPS, 1984.1)など)、シミュレーションゲーム風になっているもの(「ウルティマIII」(オリジン, 1983)、「ファンタジアン」(クリスタルソフト, 1985.2)など)、アクションゲーム風になっているもの(「ザ・スクリーマー」(マジカルズゥ, 1985)など)、前衛後衛を表現したもの(「ファンタジー(海外版)」(SSI, 1985)、「コズミックソルジャー」(工画堂スタジオ, 1985.10)など)、戦いを視覚的に表現するためだけにアニメーション表示をしたもの(「リザード」(クリスタルソフト, 1984.12)など)、などがありました。

ドラクエ発売後もこの状況に変化はなく、例えば「覇邪の封印」(工画堂スタジオ, 1986.7)の戦闘シーンは3人称視点でしたし、「ルーイン」(ウィンキーソフト,1987.5)などは戦闘が格闘ゲーム風のサイドビュー表現になっていました。 FFの後に発売された戦闘が3人称視点のRPGには、例えば「ティルナノーグ」(システムソフト, 1988.1)、「ディガンの魔石」(アーテック, 1988.4)、「エメラルドドラゴン」(グローディア, 1989.12)などがありますが、これらはどれもFFの戦闘とは質が異なっています。

海外のゲームを移植した「ファンタジー」(スタークラフト, 1986.8)は、敵と味方が左右に配置されるサイドビューの戦闘シーンになっていますが、オリジナル版の「PHANTASIE」(Strategic Simulations, 1985)を確認すると、上下に配置されるトップビューになっています。どちらも3人称視点ですが、移植をするときにサイドビューに変更されているところが面白いですね。

ドラクエやFFの発売とは無関係に、PCゲームのRPGの戦闘シーンでは、1人称視点と3人称視点の両方が採用され続けていたわけです。

以下に「リザード」とApple II版「PHANTASIE」の戦闘画面を引用しました。どちらも3人称視点が採用されていることが確認できると思います。

3人称視点の戦闘が採用されたRPGの例


主人公のセリフの表現

ドラクエでは、主人公がしゃべらないこと(主人公のセリフが表示されないこと)が、シリーズの特徴だとよく言われます。ただし、初代ドラクエでは、エンディングでプレイヤーの意思とは無関係に、主人公が勝手に判断をしてしゃべるシーンが存在していました。

初期のRPG、例えばウィザードリィやウルティマなどは、基本的に主人公のセリフは表示されません。「ブラックオニキス」や「夢幻の心臓」、「ハイドライド」、「リザード」、なども、主人公がしゃべらないタイプのRPGです。ですが、PCゲームでは、1985年ごろには、デモ的なシーンなどで、主人公がしゃべりだすゲームが登場しはじめていました。

例えば、「メルヘンヴェール」(システムサコム, 1985.8)では、ゲーム中に挿入されるビジュアルステージで、長めの文章によって物語が描かれていました。この文章の中で、主人公の考えていることや会話のセリフなどが表現されていました。

「ザ・スクリーマー」(マジカルズゥ, 1985)は、ゲームの本編では主人公のセリフは表示されませんが、ラスボスを倒してエンディングのストーリが始まると主人公がしゃべりだします。これはドラクエと同じタイプの扱われ方ですね。

「地球戦士ライーザ」(エニックス, 1985.12)では、オープニングと途中のデモシーンとエンディングで主人公のしゃべるセリフが表示されていました。

RPGで物語が描かれるようになって、主人公のセリフも必要になってきたわけですね。これは、初代ドラクエも例外ではなかったのです。

もちろん、主人公がしゃべらないタイプのRPGも継続的に発売されています。ですが、PCゲームでは、この傾向はビジュアルシーンという形で継続的に発展をしていきました。「抜忍伝説」(ブレイングレイ, 1987.11)、「ブライ上巻」(リバーヒルソフト, 1989.11)、「エメラルドドラゴン」(グローディア, 1989.12)など、1980年代後半に入ると、主人公がしゃべるタイプのゲームが次々に発売され、人気を博していきます。

ちなみに、当時の雑誌に「シナリオを重視しました」と書かれていた「夢幻の心臓II」(クリスタルソフト, 1985.11)も、ドラクエと同様に主人公がしゃべらないタイプのRPGです(エンディングでもしゃべらない。ただし例えば「わかれる」などの選択したメニューの項目が表示されることはある)。少なくとも初期のドラクエの主人公がほとんどしゃべらないのは、特別なことではなく、ただ単に当時のRPGのひとつのタイプを採用しただけだと思います。

上述のように、しゃべるタイプのRPGがどんどん増えて人気になっていき、シナリオの密度がシリーズを重ねるたびに濃くなっていったにもかかわらず、従来通りのしゃべらないタイプの主人公をかたくなに継続した点を、後にドラクエのひとつの特徴としてアピールしたということなのだろうと思います。


移動をサポートする魔法

ドラクエ以前のRPGに、ルーラ、トヘロス、リレミトのような移動をサポートする魔法がなかったかのように話している人もいるようです。しかし、若干の違いはありますが、「ウルティマIV」にも様々な移動用の魔法がありました。

「ウルティマIV」には、世界各地にムーンゲートとよばれる門があり、月の満ち欠けに応じて2箇所のあいだをワープで移動できる仕組みがあります。ムーンゲートは街のそばにあるものが多く、タイミングをあわせてこれを利用することである街から別の街へ短時間での長距離移動が可能になっていました。月の満ち欠けにかかわらずこのムーンゲートへ移動する魔法として「転送門(Gate Travel)」の魔法がありました。この魔法を使えば地上のどこにいても行きたい街のそばへと長距離移動できたわけです。これは初代ドラクエのルーラに相当する魔法(移動先を選べる点では初代のルーラよりも便利な魔法)と考えていいと思います。

「ウルティマIV」はシンボルエンカウントだったため、ドラクエのトヘロスのようなランダムエンカウントを回避する魔法はありませんでした。しかし、東西南北のいずれかの方角へ短距離ワープで移動する「まばたき(Blink)」の魔法があり、これを使えば地上で敵に会わずに一定の距離を一瞬で移動することができました。また、地下では上下の階へとワープで移動する「上昇(Yup)、下降(Zdown)」の魔法を使うことができ、これによって敵に会わずに地下の奥深くへ移動することもできました。敵に会わずに移動できる様々なサポート魔法が用意されていたのです。

もちろん、「ウルティマIV」には地下から一発で地上へもどる「脱出(Xit)」の魔法も存在していました。これはドラクエのリレミトと全く一緒の効果の魔法です。また、周辺のマップを表示する「眺望(View)」のような、初代ドラクエにはない便利な魔法などもありました。魔法を使うには秘薬を準備する必要があるので、少し面倒なところはありますが、ドラクエ以前のRPGにも便利なサポート魔法は存在していたのです。

ランダムエンカウントするタイプのRPGで敵との遭遇を回避する仕組みについてネットで探してみたところ、「ザ・スクリーマー」の「サウンドバリア」がこれに相当するようです。ただし、弱い敵だけを出現させなくするトヘロスとは違い、強さに関係なく遭遇率を下げる仕組みになっていました。どちらが便利かについてはいろいろな意見があるとは思いますが、ランダムエンカウントのRPGにも同種の仕組みは存在していたと言っていいでしょう。あと、ドラクエが参考にする時間はなかったとは思いますが、「ブラスティー」にも「PARTICLE」というエンカウント回避用の装備(エネルギーの消費によって発動し一定時間すべての敵との遭遇率を下げる機能)が存在していました。


その他

売り上げとプレイヤーの規模

当時の国産PCゲームの売上がドラクエよりも少ないことをもって、国産RPGを否定的に述べている人もいるようです。参考にできたかどうかとは別の観点になりますが、もし売上について話をするなら、少なくとも下記の3つの環境的な要因があったことは大前提にするべきでしょう(もちろん売上にはゲームの内容も影響しないわけではないですが)。

これらは、ドラクエにはあったけれどもドラクエ開発開始当時の国産PCRPGにはほぼなかった要素で、売上に関連する要素の中では非常に大きな相違点だったと思います。

※ただし、宣伝媒体を持つPCゲームについては、例外として、雑誌そのものが企画・販売に直接関わっていた事例(例えば「オホーツクに消ゆ」)など、いくつかは存在していました。

PCゲームの市場規模については正確なところはわかりませんが、例えばヒット作の累計をみると、ファミコンのスーパーマリオブラザーズが約681万本なのに対しPCのザナドゥが約40万本といわれています。オーダーだけの非常におおざっぱな概算で、PCゲームの市場はファミコンゲームのおよそ1割程度とみつもれます。PCゲーム関連雑誌のベーマガのピーク時の出版部数が28万部だったとの話(OBSLive 2016/1/30)もありますし、おそらく1桁くらいの差があったのだろうと思います(かなり乱暴な試算ですが)。売上げの話をするなら、内容の良し悪しとは無関係にこの程度の差が出ることは前提にすべきでしょう。

逆に、まるでPCゲームのユーザがほとんどいなかったかのように言う人もいますが、上記の試算は、オーダーレベルの概算で、ファミコンユーザの1割程度の規模のPCゲームユーザがいたということでもあります。つまり、ファミコンユーザが数百万の規模だとすると、PCゲームのユーザは数十万の規模だということです。

もちろんこの数値は概算でしかないのですが、例えばファミコンユーザの規模の0.01%にも満たなかったとか数千人規模しかいなかったかのようにイメージしている人がいるとしたら、それはさすがにPCゲームユーザの規模を少なく見積もりすぎだと断言していいと思います。

※PC版ハイドライドが累計100万本だったという話も出ているようです(立命館大学ゲーム研究センター, オーラルヒストリー, 内藤時浩インタビュー)。開発者の内藤さんが社内で聞いた伝聞情報が出所であることや別機種の重複購入の可能性があることなどを考慮して、仮に低く見積もったとしても、数十万の後半(70~80万)くらいの規模のPCゲームユーザが存在していた可能性はとても高いと思います。

ちなみに、自分が小学生のころの経験を書くと、40人4クラスの小さな小学校に通っていましたが、同学年で家にパソコンがあった友達は自分も含めて10人くらいいました(PC98があった友達の家にはほとんどゲームがなく、自分たちの影響でFM-New7を買った友達もいましたが)。クラスに2人くらいはいた計算になります。もちろん交友関係や年代の差や地域差などの影響もあるため一般化はできませんが、上のPCゲームユーザの規模の概算は自分の実感からも外れてはいないように思います。

※規模感をつかみにくい人もいるかもしれないので補足します。学校統計調査(文部省/文部科学省)によると1985年の小学校の数は全国合計で約 25,000 校です。地域差や学校の規模の大小などはあると思いますが、それを無視して概算すると、パソコンゲームで遊んでいる人が全校生徒の中に4~5人いれば 全国で10万人を越える計算になります。

※また、自分は小学生のときに剣道をやっていました。学区内に道場が1つしかない状況でしたが、通っていたのは同学年では4人、上下の学年はもっと多かったですが、それでも7~8人だったと思います。自分の周りでは剣道を習っていた人の数はPCゲームで遊んでいた人より若干少ない印象でした。それに対して、日本国内での活動中の剣道人口(有段者数ではなく)を確認したところ、2007年の調査で47.7万名とのことでした(「まど」, 第250回, 全日本剣道連盟, 2007.5)。あくまでも個人の経験上の話ではありますが、この話からも、上で「自分の実感からも外れてはいない」と書いた理由は理解してもらえるだろうと思います。

※最近、まるで当時のパソコンゲームの知名度がファミコンより100万倍低かったかのように数値を盛って話している人を見かけました。ここまでひどいのはさすがにごく一部だとは思いますが、何も根拠を示さずに数万倍以上にも不当に数値を誇張して表現しているような発言を、真に受けて信じたりしないように十分に注意をしていただければと思います。

パソコンとファミコンの住み分け

ファミコンが登場したあとに、パソコンゲーマーがみんなファミコンをうらやましく思っていたとか、みんなファミコンへ流れていったかのように言う人もいるようです。これがもし任天堂の「ファミリーコンピュータ」という機種の話だとしたら、おそらくそれは「みんな」ではなく「アクションゲーム好き」の人たちに限定された話だと思います(PCエンジンなどもふくめたコンシューマ系のゲーム機全体をさす言葉として「ファミコン」という単語を使っているのだとしたら、言ってることも理解できますが)。

パソコンゲームの流行をおおざっぱに追うと、初期のミニゲーム的な多様なジャンル(アクション、シューティング、パズル、クイズ、ボードゲーム、シミュレーション、アダルト向けなど)の登場から始まって、アドベンチャー、ロールプレイング、シミュレーションと移っていく流れがあります。機種にもよりますが、パソコンでは物語的・思考的なゲームがかなり流行していたのです。

ファミコンにはハードウェアによるスプライトやスクロールなどのサポートがあったので、動きのなめらかさで言えばファミコンの方が上だったと思います。アクション好きのゲーマーやその開発者から見ればファミコンは確かにとても魅力的だったのでしょう。

ですが、機種にもよりますが、画面の精細さや扱える画像などのデータの容量、大きな静止画の綺麗さ、セーブロードの機能、演算に使えるCPUの性能、などはパソコンの方が上でした。ですから、本格的なアクションが苦手な人で、アドベンチャーやシミュレーション、あるいはアクションといっても簡易なものが主体のARPGなど、のんびりと楽しむ思考型のゲームが好きなプレイヤーにとっては、ファミコンが魅力的に見える要素はほとんどなかっただろうと思います。

個人的な話をすると、自分はアドベンチャーゲームが大好きでアクションゲームはとても苦手な子どもでした。ファミコンで大ヒットしたスーパーマリオブラザーズも遊ばせてもらいましたが難しすぎて自分には向きませんでした(当時は右手でのテンキーによる移動に慣れていたので、左手で移動するパッドに慣れなかったのもありますが)。

ファミコンにも全く興味がなかったわけではなく、例えばドラクエIIIは社会現象になっていたのでやってみたいと思いましたし、キャプテン翼のAVG風スポーツゲームのシステムには興味もありました。メタルスレイダーグローリーの紹介記事を見たときには、そのパソコンと全く遜色のないレベルに遊んでみたいと強く思いました。でもPCゲームにもそれ以上に興味あるゲームが数多くありましたし、それと比べたらファミコンへの関心は低いものでした。自分がコンシューマ系をうらやましく思い始めるのは1980年代末期にPCエンジンでCD-ROMが使えるようになるあたりからです。

※ちなみに、自分がクリアした1980年代のPCゲーム(1989年までに発売されたエンディングがあるゲーム、ウルティマコレクションやEGGの復刻版のようにエミュレータで再現されて後に遊んだものも含む、ただし完全リメイクは含めない)を思い出せるだけ数えてみたところ、AVGは96本、RPGは47本、それ以外は11本でした。なお、いわゆるエロゲーには興味がなかったのでこの中にはほとんど含まれていません(せいぜい「闇の壱与伝説」くらい)。我ながらAVG大好きすぎですね。

もちろん、個人の経験を一般化することはできませんが、アドベンチャー好きやシミュレーション好きにとって、ファミコンよりパソコンの方が魅力的にうつっていたというのは、一般的な考え方としても理解してもらえるのではないかなと思います。つまり、パソコンとファミコンとでは得意分野が異なっていて、その住み分けができていたと説明するほうが妥当だろうと思います。

※なお、最近では1983年ごろのパソコン版AVGのラインペイント方式でゆっくり画面が描画される様子を示して、それと比較してファミコンのほうが性能が高かったなどと言う人まで出ているようです。ですが、そもそも同時期のファミコンでは、シーンごとに異なる数十枚の大きな静止画を表示するようなゲームはまだ登場していないですし、容量と価格との関係で作るのもほぼ不可能だったと思います。静止画の描画性能で言えば、使える色数はファミコンのほうが多いですが解像度はパソコンのほうが高いですし、1984年には瞬間画面表示のAVGも登場しています。ですから、この指摘はかなり的外れだと思います。

組み合わせの巧みさについて

ドラクエは既存の要素を組み合わせていてそのバランスや取捨選択がうまかったと考える人もいます。バランスの良さなどの評価には主観が入ったり対象年齢との関係が影響したりする可能性がありますが、そういう判断をするのも妥当な意見のひとつだと自分も思います。しかし、それを強調したいがためにドラクエ以前のRPGをけなしたり馬鹿にしたりするような、過去に全く敬意をはらわない残念な行為はやめるべきだと思います。

例えば、当時のRPGは子どもが遊ぶには難しすぎて全く遊べなかったかのように言う人がいますが、当時放映されていたテレビ番組「パソコンサンデー」のPCゲームを紹介する映像などを見ると、子どもたちが「ザナドゥ」で楽しく遊んでいる様子や、終了認定証を得意げに見せている様子などがうつっています。他の文章でも書きましたが、ザナドゥはクリアするのは確かに難しかったですが、序盤は当時の子どもたちでも普通に遊べていたのです(詳しくはザナドゥについて初期のPC用アクションRPGについて)を参照)。

また、このページで示した事例をいろいろと見てもらえばわかると思いますが、「夢幻の心臓」シリーズなどは、初代で海外のRPGの要素を取り入れつつ映像や表現方法などを日本人向けに巧みにアレンジし、IIでは操作体系や速度などを改良してさらに遊びやすくしています。この夢幻の心臓IIの要素の組み合わせ方のかなりの部分をドラクエは踏襲した形になっています。「日本人向け」や「遊びやすさ」の点で様々な工夫をこらした国産PCゲームが存在していたからこそ、ドラクエがそこから先を考えることができたとも言えるはずです。そのことをぜひ忘れないでもらえたらと思います。

ファンタジーについて

ドラクエがファンタジーを日本に広めたなどと言う人もいるようですが、これも不適切だと思います。 RPG的な要素を広めるきっかけのひとつになったとは言えると思いますが、 ファンタジー的な物語は当時すでに多数存在していてよく知られてもいました。

王様やお姫様、騎士や魔法使いや悪魔などが登場するファンタジー作品として、 例えば手塚治虫の漫画「リボンの騎士」などは昔からよく知られていた作品のひとつでしょう。 連載開始は1953年、1967年にはTVアニメ化され、バレエの演題などにもなっています。

自分が子どものころ見たTVアニメでよく覚えている異世界ファンタジーものには 例えば「ポールのミラクル大作戦」があります。1976年放映開始のようなので自分は再放送を見ています。 主人公は普通の少年ですが、様々な異世界を渡り歩いてさらわれた恋人を救い出し、 平和を乱す悪魔ベルト・サタンを倒すという内容になっています。 他には24時間テレビで放映された手塚アニメ「プライムローズ」もSF要素を含む ヒロイックファンタジー的な作品として印象に残っています。これは1983年に放映されています。

大人が見るような洋画でも、例えば1981年に「タイタンの戦い」が日本で公開されています。 ギリシャ神話の英雄ペルセウスがメデューサやオオサソリなどのモンスターと戦い、 最後にはペガサスに乗ってクラーケンを倒してアンドロメダ姫を救うという、王道的な物語です。 翌年の1982年にはヒロイックファンタジーとして有名な「コナン・ザ・グレート」も 日本公開されています。これらはテレビの映画番組で何度か放映されるのを見た記憶がありますし、 とてもよく知られた映画といっていいと思います。

また、当時大きな話題となったファンタジー映画「ネバーエンディングストーリー」の日本での公開は1985年3月だったようです。テレビでもCMや特番がたくさん流れていたかなり知名度の高いメジャーな作品ですら、ドラクエよりも前に公開されています。

小説でも例えば上記のコナンの原作小説は1970年代に日本語に翻訳されているようですし、 1979年からは栗本薫の長編ヒロイックファンタジー小説「グインサーガ」の 発刊も始まっています。他にも、趣旨からは若干はずれますが、ギリシャ神話を モチーフにした車田正美の漫画「聖闘士星矢」の連載開始は1985年12月、 安彦良和原作の劇場アニメ「アリオン」の公開は1986年3月です。 名称だけですが中森明菜のアルバムに「ファンタジー(幻想曲)」(1983.3)というタイトルのものもありましたね。

自分が思い出せるもので、これだけの事例があるのです。 詳しい人なら例えば「オズの魔法使い」や「長靴を履いた猫」など、 いくらでも例をあげられるのではないかと思います。 当時、こういったファンタジーものの作品は世の中に数多く存在していて、 大人にも子どもにも、それらにふれる機会はたくさんあったと思います。

こういった背景の中で、外国をよく知るひとたちがTRPGやウルティマ・ウィザードリィ などの「ゲームとしてのファンタジー作品」を知り、日本国内のアーケードゲームの層は「ドルアーガの塔」「ドラゴンズ・レア」「ドラゴンバスター」「ガントレット」などで、 PCゲームを知る層は「ブラックオニキス」「夢幻の心臓」「ハイドライド」「リザード」 などで、それを知っていったのだと思います。 そして、そういった情報にまだふれていないドラクエ世代の子どもたちは、 ファミコン版ドルアーガの塔やハイドライド・スペシャル、そしてドラゴンクエストで、 ゲームとしてのファンタジー作品にふれることになったのだろうと思います。

もちろん、ドラクエの影響を受けて創作活動をしている作家さんがたくさんいることを 否定するつもりはありません。 ですが、他の様々なファンタジー作品や、D&DなどのTRPG、 ハイドライドなどのPCゲームの影響を受けた作家さんも同様にいることを 忘れないでいただけたらと思います。 ドラクエがファンタジーを日本に広めたなどと話をおおげさに盛ることによって、 それ以前の偉大な作家たちの功績をないがしろにしてしまうような行為が減ることを 願っています。

※それから、ごく一部にですが、ドラクエがいわゆるエルフやドワーフなどが登場する 「トールキン的なファンタジー」を広めたなどと言う人もいるようです。 しかし、これらの要素は初代ドラクエや2には存在せず、3にも少ししか登場して いなかったはずです。 その一方で、例えばこの種のファンタジーで日本人向け・若者向けの作品として有名な 「ロードス島戦記」は1986年にリプレイの連載が始まり1988年には小説化もされています。 つまりドラクエ1~3と同時期に流行がはじまっているのです。 また、エルフやドワーフを種族として選べるファミコン版ウィザードリィですら ドラクエ3より前の1987年に発売されています。 そのころのドラクエにほとんど存在しなかった要素を、ドラクエが広めることなど できないでしょう。

あと、これは完全に余談ですが、当時読んだSFファンタジー漫画では、佐々木淳子の「ダークグリーン」(1983~1988)がとても面白かった記憶があります。ソードアートオンラインが好きな人などにぜひ読んで欲しい作品です。

「歴史のもしも」について

「もしも夢幻の心臓IIが当時ファミコンで出ていたらドラクエのように売れていたのか?」というような問いかけをしている人も見かけます。このような、いわゆる「歴史のもしも」は空想を楽しむにはとてもよいものだと思います。ですが、「問い」のたてかたによって結論をある程度操作できるうえに、何の根拠もなしに何らかの事実を示したかのような気分にひたれてしまう点には注意すべきでしょう。やり方によっては問題を浮き彫りにする効果はあるとは思いますが、あくまでも仮定の話であって、根拠にもとづいた何らかの新たな事実がわかるような種類の話ではありません。

それでもあえてこの問いにまじめに答えるなら、「当時、夢幻の心臓IIと同じものをファミコンで出すことはできなかった」というのが回答になると思います。当時の技術ではファミコンでのセーブ・ロードの実装は困難だったはずですし、パソコンとファミコンでは画面の縦横比や表示の精細さも異なっています。モンスターの絵を使いまわしなしにドラクエよりも大きく表示するのも容量的に無理でしょうし、ソフトウエアスクロールで視界制限つきの移動システムをPC8801mkIISR並みの速度で実現できたかどうかも疑問です。仮にできたとしてもカセットの値段は採算がとれないくらいにとんでもなく高くなるでしょう。そもそも、そういったファミコンの制約の中で、できる範囲でRPGを形にしたことがドラクエの功績のひとつだったはずです。

そういった現実を無視して「もしもファミコンで出ていたら」と仮定をするというなら、「もしも当時のパソコンやソフトがファミコンと同じ価格帯で売られていて、同じくらい一般家庭に普及してPCゲームが楽しまれていたとしたら、どちらが売れていたか?」と仮定をしても比較としてはほぼ一緒です。この質問なら、自分はおそらく「夢幻の心臓II」の方が売れていたのではないかと回答すると思います。夢幻の心臓IIはドラクエよりも先に出ているので、ドラクエの新鮮味はかなりそがれるでしょうし、復活の呪文よりもセーブ機能の方が便利です。モンスターの絵の使いまわしもなく、ゲーム内の仕掛けやストーリーなどの内容も豊富で、しかもシステムの複雑さも小学校高学年くらいから上なら十分理解できるものになっているわけですから。

もちろん、上の話は「問い」の立て方で結論を操作できる事例のひとつにすぎないです。これが例えば「ファミコンで実現できるレベルにまで劣化させた夢幻の心臓IIが実際の発売日よりも半年後のドラクエと同じ時期に発売されていたらどうか?」と問われれば、それはさすがに売れなかっただろうと答えると思いますし。「歴史のもしも」はあくまでも仮定の話でしかないことを前提にして、空想をおおいに楽しむのにとどめておくのが良いのではないかなと思います。

RPGのシステムをシンプルにする試み

ウルティマやウィザードリィなどと比べて、RPGのシステムをシンプルにしたことがドラクエの革命的な点だったと述べている人もいるようです。例えば、管理が必要なリソースを「HP」と「MP」と「ゴールド」の3つだけに絞ったことを革命的だったと言う人や、シリーズの1作目はプレイヤーを1人にしておいて2作目以降からパーティ制にしたことを極端に強調するような人たちです。ですが、国産RPGではシステムをシンプルにする試みは継続的に行われていました

例えば「ブラックオニキス」(BPS, 1984.1)はパーティ制を採用していたゲームではありましたが、魔法のシステムは完全に排除していました。そのため、管理すべきリソースはドラクエよりもさらに少なく、「HP」と「ゴールド」だけでした(薬などのアイテムの管理の話は除外しています)。

「リザード」(クリスタルソフト, 1984.12)も、管理すべきリソースは「HP」と「ゴールド」だけでした。道具が壊れるという要素はありましたが、「MP」のようなリソースを消費する魔法のシステムは採用していませんでした。しかも、初代ドラクエと同様に主人公は1人だけで、パーティ制も採用していませんでした。システムとしてはドラクエよりもさらにシンプルだったと考えることもできると思います。

また、「リザード」の続編は、「アスピック」(クリスタルソフト, 1986.9)というパーティ制を採用したRPGでした。シリーズの1作目が1人旅で、2作目以降からパーティ制を採用する方式は、「ウルティマ」シリーズ、「夢幻の心臓」シリーズ、「リザード」シリーズなど当時のRPGでも採用されていた方式だったのです。

ちなみに、当時のパーティ制を採用したRPGには「あらかじめ全部のキャラクターを作成してパーティを組んでからゲームを開始するタイプ」と、「最初は1人だけでゲームを開始して途中から仲間を増やしていくタイプ」とがありました。このうち、前者については、確かに敷居が高いシステムだと思います。

ですが、後者はゲームの中で1人旅からパーティ制へと移行するので、導入部分の敷居はかなり低いシステムだと思います。これについては、導入部分での「システムをシンプルにする試み」のひとつと言えるかもしれません。初期のRPGでは「ポイボス」(大名マイコン学院, 1983.12)や「夢幻の心臓II」(クリスタルソフト, 1985.11)などがこのタイプを採用していて、「ブラックオニキス」(BPS, 1984.1)などはどちらの方法もとることができるシステムでした。ドラクエ2もこのタイプですね。

もし仮に、後者のタイプのパーティ制であっても子どもが遊べなくなるほど複雑すぎるのだとしたら、ドラクエ1をやらずにドラクエ2から遊んだ多くの子どもたちもシステムが複雑すぎて遊べなくなっているはずです。もしかしたら小学校低学年ならそういう子どももいたのかもしれません。ですが、中高生までふくめた幅広い「子どもたち」の年齢層全体で考えれば多くの子どもたちがドラクエ2で遊べていたわけですし、もちろん当時のパソコンゲームで遊んでいた中高生はブラックオニキスや夢幻の心臓IIなどのRPGを楽しめていたわけです。ですから、少なくとも後者のタイプのパーティ制については、そこまで複雑すぎるとは言えないと思います。

なお、アクション要素をふくむRPGも話に加えるとしたら、「ハイドライド」(T&Eソフト, 1984.12)も主人公は1人だけで、管理するリソースもHPだけというシンプルな構造になっています。後半の謎解きはドルアーガの塔などと同様に難しい面がありますが、リソース管理についてはドラクエと比べて非常にシンプルだと言えます。

ちなみに「夢幻の心臓II」(クリスタルソフト, 1985.11)のリソース管理について言えば、確かに初代ドラクエと比べると少しだけ複雑だとは言えると思います。例えばドラクエにはないリソースとして「食料」が採用されています。このシステムには確かに「食料がなくなるとHPが減っていく」という負の側面があります。ですが、その一方で「食料があればHPが自動的に回復する」という、ドラクエの序盤にはない便利な側面もあるのです。また「賃金」の要素もありますが、これはリソースとしては「ゴールド」でしかなく、しかも、賃金が無料の登場人物を仲間にするだけで、このリソース管理については意識する必要がなくなります。

現在の子どもたちが楽しんでいるゲームの中にはもっと複雑な要素を持つものもたくさんあるわけですし、このたった2つの要素があるかないかの違いだけで、当時の子どもたちがゲームを全く遊べなくなるほどの差が出るとは、とても思えません。

夢幻の心臓IIとドラクエで、複雑さにそれほど大きな違いがなかったことを示すために、戦闘シーンの画面を下に引用しました。夢幻の心臓IIではレベルと経験値の代わりに食料と日数が表示されていること、パーティ制なので、仲間の一覧と敵の数と名前が表示されていること、状態異常が記号で表現されていること、弱い味方を守るための「ぼうぎょする」がメニューに追加されていること、しか違いはありません。

夢幻の心臓IIとドラクエの戦闘画面の構成

夢幻の心臓IIでは表示の一部に英語がつかわれていますが、ドラクエにも「G」や「E」など見ただけでは意味がわからない表現が使われているので、この点でわかりやすさに違いがあるとは言えないでしょう。 画面の区分けのしかたも、敵の数と名前を表示する部分をのぞけばどちらも4つの領域(敵のビジュアル、ステータス、メニュー、メッセージ)に分ける方法が採用されていて大差はありません。メニューの選択している項目の表現も、左側に矢印っぽい記号を表示するという同じ方法が使われています。

パーティ制を採用しているため、若干情報量が多いのは事実だとは思います。ですが、子どもが理解できないほど極端に複雑だったわけではなく、むしろ、かなりわかりやすく整理されていたことが確認できると思います。

ここでは主にリソース管理とパーティ制について書いていますが、当時の国産RPGには、例えばマルチウインドウシステムやカーソル移動式のメニューの採用など、システムをシンプルに遊びやすくするための様々な工夫がなされていました(他の項目でいろいろ書いているのでよかったら読んでみてください)。

そういった遊びやすさもあったからこそ、PCゲームでは1985年の年末にRPGの新作発売ラッシュが起きるほど、RPGが大人気になったのだと思います。ドラクエはその様々な試みの延長線上に存在しているゲームだと言えると思います。

日本のRPGの発展の歴史という点でみるとしたら、「ウィザードリィ」や「ウルティマ」などの海外のRPGのシステムに対して、「ブラックオニキス」や「ハイドライド」や「リザード」や「夢幻の心臓II」などが遊びやすくシンプルにすることを試みて日本のパソコンゲーマーへとそれを広め、その流れの中で「ドラゴンクエスト」がユーザ数の多いファミコンでそれを遊べるようにしたことで、さらに多くの子どもたちへと広めた、と考えるのが妥当だと思います。

マイナーだったという表現について

上で書いているような内容に対して反論するために、ドラクエ発売の時期には、PCゲームでもRPGはマイナーだった、と言っている人も、いまだにいるようです。もしそう考えたのなら、なぜそう考えたのかの根拠をきちんと示すべきでしょう。

パソコンでRPGが大流行していたと指摘している人たちは、当時の雑誌のランキングや具体的な特集記事や発売していたゲームの傾向などを、その根拠として示しています。自分も1985年の年末商戦の時期に数多くのRPG、例えばザナドゥ、ハイドライドII、夢幻の心臓II、地球戦士ライーザ、パラディン、リグラス、ウィザードリィ、ウルティマIIIなどが発売されていたことから、RPGに人気があったと考えています。

ちなみに、PCゲーム関連雑誌の「月刊ログイン」は、1984年ごろまでに何度か海外のいわゆるTRPGを特集していて、もちろん、その後の特集記事ではパソコン用のコンピュータRPGも本格的に扱いはじめます。1985年の表紙から関連する特集記事のタイトルを探すと、3月号の「ロールプレイングワールドへご招待」、9月号の「RPG大特集」、12月号の「ロールプレイングがにぎやかだ!!」の3つが確認できます。12月号の背表紙には「ドラゴンすりゃ売れてま、無限のRPG特集」と書かれていますが、これが「ドラゴンスレイヤー」「ウルティマ」「夢幻の心臓」のゲーム名を使った「お遊び」であることは、当時のPCゲーマーならすぐに気がつきますよね。こんな感じで雑誌でもRPGの話題で盛り上がっていたのが1985年の年末のPCゲーム事情だったのです。

「マイコンBASICマガジン」では1985年12月から「チャレンジ!ロールプレイングゲーム」の連載がはじまっていて、翌年には「チャレンジ!!パソコンAVG&RPG」(山下章 著, 電波新聞社, 1986.4)の書籍も発売されています。この本には「RPG総カタログ」の章があって、その中には、RPGと呼んでいいか微妙なものや移植による重複、未発売なものなども含まれてはいますが、合計で81本ものRPGが紹介されています(詳細)。なお、この書籍は再刊版が発売されていて、この内容は再刊版のほうで確認をしています。このような書籍などもRPGの人気を示す事例のひとつだと思います。

もしこの時期にはまだPCゲームでもRPGはマイナーだったと言うのなら、少なくとも他にどんなタイプのゲームが流行していたと考えているのか、具体的にゲームの名前をあげて示して欲しいところです。そのうえで、当時の雑誌などを参考にして実際はどうだったのか検証することになるのだろうと思います。

なお、この時期(1985年の年末)までのファミコンやアーケードには、RPGに近い内容のもの(「ドルアーガの塔」や「ボコスカウォーズ」、RPGと名乗っていたけれども基本的にはシューティングゲームだった「頭脳戦艦ガル」(dB-SOFT,1985.12)など)はありましたが、RPGだと明確に断言できるものはほとんど無かったと思います。

一方、ここの説明で用いている マイナー/メジャー のような概念や、人気/不人気、などの単語は、基本的にはその対象がある程度は存在していることを前提として使われることが多い用語です。 この時期のファミコンRPGなどの話題でこのタイプの概念や単語を使うと、非常に誤解を生みやすいので、用語の使い方には十分に注意をしていただければと思います。

例えば「PCゲームでは大流行していたけれどもファミコンのプレイヤーには知らない人も多かった」という説明をする際に、単に「マイナーだった」とだけ書いてしまうと、ファミコンにもそれなりの数が存在していたけれどもマイナーだった、あるいは、多数存在していたPCゲームの方でもマイナーだった、などと勘違いされてしまう可能性がとても高くなってしまいます。そのような誤解が生じないような表現の配慮をしていただけると嬉しいです。

当時のパソコンの価格

当時のパソコンの価格について40~50万円くらいしたと書いている人を見かけます。それがただの一般的な昔話なら理解できますが、ドラクエの話題でこの価格を持ち出すのは不適切だと思います。なぜなら、時期と実売価格を考慮する必要があるからです。

1980年代はじめの定価ベースであれば、この価格は妥当だと思います。ですが、ドラクエが発売された1986年ごろでは、いわゆる御三家(NEC、シャープ、富士通)の8bit上位機種のパソコンでも、実売ベースの価格は高くても20~30万円程度だったと思います。

マイコンBASICマガジンにはパソコンショップの広告(シスペック、ICワールドヨコヤマ、マルゼンムセン、九十九電機など)が掲載されています。それを見ればそれぞれの時期のおおよその実売価格は見当がつくだろうと思います。1986年前半の広告をざっとながめると、PC98などの16bit機をのぞけば、ディスプレイ付きのセット価格でも10~20万円程度の値段がならんでいて、高いものでもほとんどが30万円以下におさえられていることが確認できると思います(8bit機で30万円を越えるのはPC-8801mkIIMRくらい)。

具体例として、マイコンBASICマガジン1986年1月号のシスペックの広告から、御三家の8bit上位機種のパソコンで、価格が明示されていて、カラーディスプレイとFDドライブ2つを利用可能な構成のセットの価格をいくつか抜き出して以下に示します(カッコ内は引用者による補足)。

この広告では、新製品の実売価格はほとんどが「スペシャル特価」とだけ記載されていて詳細が不明なのですが、いわゆる「型おち」の製品がかなり安く販売されていたことが確認できると思います。

ドラクエと関連してパソコンの価格の話をするなら、まずは雑誌などで1986年あたりの実売ベースでの価格を確認して欲しいところです。

なお、当時の金銭的な感覚を確認するために、下記のページで大卒の初任給の推移(厚生労働省の賃金構造基本統計調査にもとづく表)を確認したところ、1986年の調査結果は144,500円とのことです。上述のFM-77L2セットのような型落ちの製品は、若い会社員の給料1カ月ぶんくらいの感覚で購入できたわけですね。

ちなみに、自分は1980年代前半にパソコンをさわっていますが、それは父親が趣味と仕事のために購入したMZ-80Bを使わせてもらう形でした。X1が家にある友達は兄がシャープにつとめている関係で入手したようでしたし、PC-6601などがある家は親が家族全体で使うために購入したものだったと思います。確かお年玉をためて買った友達もいました(10万円くらいもらってたと聞いたような記憶があります)。当時のパソコンの購入のされかたには様々なタイプがあったんですよね。

関連する情報として「雑誌のQ&A記事」のページには当時のプレイヤーの年齢層などについても書いています。よかったらリンク先も読んでみてください。


ドラクエ以前から存在した要素

上で見てきたように、様々な参考となるゲームが存在している状態でドラゴンクエストは開発されました。上であげたもの以外にも、ドラクエを構成している要素や特徴には国内外のゲームに存在していたものが多くあります。以下に、思いつくものを(上で記述したものも含めて)まとめてみました。いくつかは以前書いた2つの文章(「ドラクエ以前の国内パソコンゲーム(本文)」「夢幻の心臓IIからドラゴンクエストへ」)でもとりあげているので、興味があれば読んでみてください。

なお、下のまとめはあくまでも「類似の要素や特徴がすでに存在していた」という意味であって、それ以外のことは意味していない点に注意してください。例えばBGMを使った演出の前例について、ドラクエは地下へ降りるほど音程が下がるのに対し、ザナドゥはフードがなくなると音程がゆがむなど、類似の要素があったのは事実ですが具体的な手法までが完全に一致していたわけではありません。また、ドラクエが意図的にまねをしたという意味でもありませんし、下に書いたゲームが最初だったという意味でもありません(無意識に影響されたりたまたま同じ発想をもった可能性もありますし、これ以前の事例があるかどうか十分に調べつくしたわけでもありません)。特に下記を引用する場合などには、これらの点について誤解をあたえないように注意をしていただければと思います。

表現面で類似した要素 ゲームシステム面で類似した要素 シナリオ・演出面で類似した要素

※上記のリストには初代だけでなくドラクエII以降の要素も一部にふくめています。

※下図にステータス表示の例と洞窟等での視界制限の例を引用しました。左の画像からは、初代「夢幻の心臓」で耐久力が減ったときにステータスが赤く表示されることがわかります。右の画像からは、「夢幻の心臓II」で日本語表記されたアイテムの中に「たいまつ」があることがわかります。洞窟や塔に入るとこの図のようにマップの表示範囲がせまくなり、「たいまつ」を使うとそれが広がる仕組みになっていました(なお、この図では物陰の背後はアイテムで表示させています)。この画像からは、句読点をできるだけ排除し、単語を空白で区切ることで文章をすっきりと読みやすくしていることも確認できます。

当時のRPGに採用されていた様々な要素

上にあげたものの中には、もしかしたらドラクエがはじめておこなったとネット上の記事などに書かれているものもあるかもしれません。あるいは、学者や研究者や当時に詳しいライターなどの肩書をもつ人や、当時の雑誌の編集者や有名なゲームの開発者やデザイナーやイラストレーターなどの人たちが、これらの存在を全くなかったかのように語る場面を見ることがあるかもしれません。 ですが、実際には、ドラクエが発売される前にも、これらのようなRPGを作るうえで参考になる様々な要素や特徴をもつ国内外のパソコンゲームが存在していました。

ドラクエの開発者がすばらしいRPGを作りたいという情熱を持っていたとしたら、当然、ゲーム雑誌などに掲載されている最新のRPGの情報は集めていただろうし、それらの調査も十分にしていただろうと思います。そういったことをしたうえで、今あるものよりもさらに良いゲームを作ってやろうという意気込みで開発にあたっていたんじゃないかなと個人的には思っています。そういった意味でも、国産パソコンRPGに全く影響をうけていないというのは、さすがにありえないだろうと思います。

紹介のしかたについて

もちろん、ドラゴンクエストを紹介するときに、自分がプレイした感想として、これらの体験が自分にとってはじめてだったと書くことには全く問題はないと思います。例えば「地下へ降りるとBGMの音程がだんだん下がっていくところにはすごく不安感をあおられたし、自分はこんな体験は初めてだった」というような感想はどんどん書いていいと思います。ですが、そこから発展して「BGMを演出に使う発想はこれまでのRPGにはない新しいものだった」とか「同じBGMを変化させる手法はドラクエで初めて採用された発明だった」とか書いてしまうのは、間違ったことを書いているという意味でよくないと思います。上でも書きましたが「ザナドゥ」では具体的な手法がドラクエとは違っていたものの、BGMを変化させる演出はしていたわけですから。

あるいは、量の問題として説明することは、その状況が間違ってなければ問題ないと思います。例えば「当時はストーリー性のとぼしいRPGが多かったが、ドラクエはその中ではストーリー性のある方のRPGのひとつだった」のような説明はしても問題ないと思います。でも、それを「それまでのRPGにはなかったストーリー性をはじめて導入した」などと強調して書いてしまうのは、事実とは異なるという意味で、やっぱりよくないだろうと思います。

それから、こういうシステムになっていると単に解説するだけなら、それも問題はないでしょう。でも、すでに他にそのシステムを採用していたものがあったにもかかわらず、あたかもドラクエ特有のもののように誤解をさそうのも良くないと思います。例えば「ドラクエではマルチウインドウが採用されている」と紹介するのは問題ないと思いますが「当時はビジネスソフトにしか使われていなかった」などと嘘までついて、それが画期的だったかのように装うのは適切ではないと思います。城で復活する仕組みなどについても、単にそうなっていると説明するだけならいいですが、周辺の文章を使ってあたかもドラクエがはじめてだったかのように装うのは不適切でしょう。

嘘はつかないにしても、すでにあった要素に対して「当時この発想をもてたのはすごかった」とか「この方式を発明したすごい開発者だ」のように賞賛するなら、ドラクエ以前にそれをやっていたゲームや開発者に対してももちろん同等以上に賞賛すべきでしょう。少なくとも先例を知ったときに同様の感想を持てないのは明らかにおかしいです。

新しいことをしたゲームよりもそれを広めたゲームの方が重要だと言う人もいるようですが、それならちゃんと「広めた」と説明すべきでしょう。「発明だった」とか「画期的だった」とか「それまでにはなかった」とか「革命的だった」とか、最初にやったかのような誤解を生む言葉や表現を加えなければそれで問題はないと思います。でも、もし加えるようなら、その人は『本当は「新しいことは重要」と思っているのに、重要ではないと嘘をついている』ことになると思います(ちなみに、自分は歴史的にはどちらも同じくらいに重要だと思っています。もちろんその間で発展に寄与したゲームも大切です)。

また、「広めた」と言うのであれば、「どこ」にあった、「何」を、「誰」へ、広めたと考えているのかを、事実関係をよく確認したうえで、過剰な評価にならないように注意しながら、きちんと示すことが歴史に対して誠実な態度だと思います。そこを無視したり、おおげさなことを言っているのを見ると、歴史に興味があるように見えても単に褒めたいだけで事実については何の関心もないのかと疑いたくなってしまいます。

あと、もちろん、広めたかどうかなどは当時の状況などから総合的に判断する必要があります。しかし、ゲームのシステムがどうだったかについては今からでも客観的に確認できるのに対し、人々への影響の度合いや難易度などの感じ方については客観的な確認が困難で主観が入る余地がある点にも注意が必要だと思います。

ゲームの歴史に名を残せたかどうかみたいな話も、客観的な説明が難しい話題のひとつです。自分がよく知らないゲームについて、たいして調べもせずに「歴史に名を残せなかった」などと書いてしまうと、勝手にレッテルをはって自分の無知や詳しい説明ができないことへの言い訳をしているとも受け取られかねないので、注意した方がいいでしょう。

※まだ関係者が生きていて経験者もたくさんいる状況で「歴史に名を残せなかった」と断じるのはおかしいという指摘をいただきました。歴史的に重要な意味を持つゲームなのに現状ではまだ名前があまり知られていないのだとしたら、それは「残せなかった」のではなく、今この時点で重要なゲームの名をきちんと「残そうとしていない」という、ゲームのライターや研究者や歴史家と呼ばれる人たちの「怠慢」だという指摘です。自分もこれはもっともな話だと思います。

さらにひどいものになると、ドラクエが最初だったとさんざん肯定的に取り上げておいて、それが間違いだと指摘されたとたんに「何が最初だったかは重要じゃない」などと逆のことを言いだして、それだけでは飽き足らずに先例をむごい言葉で叩きはじめる事例まであるようです。さすがにそこまでひどいのはごく一部だとは思いますが、自分にはとてもまともだとは思えませんし、そんなのは論外でしょう。

もちろん、初めて経験して感動した体験を強調したい気持ちはよくわかりますし、知識不足で間違ったことを書いてしまうこともよくあることだと思います。文章を読みやすくするために単純な書き方をしてしまうこともあるでしょう。自分も感動してついついそういう書き方をしてしまうことはありますし、細かい正確さよりも読みやすさを優先して書いてしまうこともあります。間違いを完全になくすことは難しいだろうとも思います。今回書いた自分の文章にも、きちんと調べて書いたつもりではいますが、もしかしたら間違いがあるかもしれません。ですが、せめて間違いを指摘されてその証拠もあるときには、訂正や修正をおこなう度量は持っておきたいですし、文章を書くときにはできるだけ嘘になってしまわないように自戒もこめて注意していきたいものだなぁと思います。


補足資料

2016年の年末に実家に帰省したときに、1985年~1986年のマイコンBASICマガジンが残っているのを見つけました。この雑誌は「ベーマガ」の愛称で親しまれていたゲームを作りたい人向けの入門的な雑誌で、投稿プログラムのリストやプログラミングの解説などに加え、最新ゲームの広告や記事も掲載されていました。上記に記載した内容のいくつかについて参考になる写真を撮ってきたので、補足資料として以下に追記しました。

ハイドライドIIの宣伝で使われていた要素

下の図はドラクエの開発が始まった時期に発行されたマイコンBASICマガジン1985年11月号に掲載されていた「ハイドライドII」(T&Eソフト)の広告から引用したものです。

ドラクエ開発開始時期の「ハイドライドII」の広告に掲載されていたセールスポイント

上の図の中央にある写真は広告の左下の部分を拡大して引用したものです。プレイヤーキャラクターのイラストがならんでいますが、ハイドライドIIでは、武器を装備したときにキャラクターのパターンが変化するようになっていました。ドラゴンクエストでは、剣や盾を入手すると、手に何も持っていないキャラクターの絵が剣や盾を持ったものに変化しますが、この仕組みは「ハイドライドII」の広告で積極的にアピールされていたものでもありました。

右の写真は広告の中央右側の部分を拡大して引用したものです。この部分では、ゲームのスクリーンショットを掲載することで、マルチウィンドウシステムをアピールしていました。この画面は、メインメニューからCAMPメニューを開いて、さらにそこからゲームスピードを調整するサブウインドウを開いたときのもので、2Dマップ上に、複数のウインドウが重なって表示されているところが見てとれます。ドラクエで採用されたマルチウインドウのシステムは、ドラクエの開発がはじまった時期にT&Eソフトが積極的に広告などでアピールしていたものでもあったのです。

また、下の写真は同じ広告に記載されていたプロローグの部分を拡大して引用したものです。主人公が「まだ心の汚れていない一人の男の子」であったことや、フェアリーランドを神様が「時空をねじまげ人間の世界とつなげた」という設定が採用されていることがわかります。

プレイヤーが自分自身と重ねやすい子ども向け主人公の設定

ドラクエ以前のRPGの主人公が子ども向けになっていなかったかのように言う人や、この時期の日本に異世界召喚もののRPGがなかったかのように言う人もいるようですが、「ハイドライドII」のこの広告にのっているプロローグは、まさにその両方を含んだものになっています。このプロローグは、プレイヤーである子どもたちが自分自身を主人公と重ねやすい設定になっていると言えるでしょう。なお、「心の汚れていない男の子」という設定は、ラスボスを倒す鍵となるもので、ストーリー上の重要な要素にもなっていました。

※ちなみに、国産パソコンゲームでは1985年ごろから主人公を若者や少年として描くRPGがふえていきます。「メルヘンヴェール」(1985.8)の主人公である湖の国の王子はおふれを見て集まった「若者」のひとりでした。「ハイドライドII」(1985.10)の主人公は上で書いたように「男の子」。「リグラス」(1986.1)の主人公メイは、舞台となる世界で成人をむかえていますが「少年」と表記されていました。「ロマンシア」(1986.10)のころになると、タイトル画面でまさに少年といっていい絵柄で主人公のファンフィレディ王子が描かれています。RPGのプレイ層が中学生高校生へと広がっていた影響のひとつと言えるかもしれません。

夢幻の心臓IIの当時の評価

下の図はマイコンBASICマガジン1986年3月号に掲載された「夢幻の心臓II」(クリスタルソフト)の紹介記事で、右側の写真はその最後の節を拡大して引用したものです。

「夢幻の心臓II」に対する当時のパソコンゲーマーの評価の一例

ベーマガでは1985年12月から「チャレンジ!ロールプレイングゲーム」という連載がスタートしていました。最初のころはそれまでに発売されたザ・スクリーマーやハイドライドIIなどの国産RPGを月に1~3本程度、見開きで順次紹介していて、3月号で紹介されたゲームのひとつが「夢幻の心臓II」でした。

著者は手塚一郎さん。紹介文の最後の節には「夢幻の心臓II」について「ムチャクチャな設定がないので、メモやマッピングをしっかりやっていれば必ず解ける(慣れた人なら3~5日ぐらいかな?)。」と書かれています。当時のパソコンRPGには難しくて当たり前という風潮が確かにあったわけですが、その中でも「夢幻の心臓II」は必ず解けるように作られたゲームとして紹介されていたことがわかります。

ドラゴンクエストについて「当時のパソコンRPGは理不尽に難しいものばかりだったのに対し、ドラクエは頑張ればクリアできる所が画期的だった」と言っている人もいるようですが、この記事からわかるように、同じ趣旨のことは当時すでに「夢幻の心臓II」に対して言われていたのです。ただし、この記事はあくまでもベーマガの読者を想定したもので、さすがに小学校低学年までは想定していなかっただろうと思います。この「夢幻の心臓II」で示された方向性をさらに押し進め、広がりはじめていた間口をさらに広げたのがドラクエだったと言えるだろうと思います。

ちなみに、元編集長の話によるとベーマガでは小学校4~5年生で読めるような文章を意識していたそうです(OBSLive 2016/01/30の動画より)。読者層として小学校高学年あたりから上を想定していたと言えるでしょう。実際、ベーマガの読者投稿コーナーを見ると中学生前後の年齢層からの投稿が多く確認できます。詳細を「雑誌のQ&A記事」(昔のパソコンゲームの周辺文化)の文章の中で紹介したので、リンク先を読んでみてください。

PCゲームでは、中学生や高校生にもRPGは楽しまれていたので「大人向けだった」と書くのもやめたほうがいいと思います。当時PCを扱ったTV番組、パソコンサンデーの映像を見ても、PCゲームの紹介コーナーでは少年たちや子どもたちに向けた口調でRPGの紹介をしていることが確認できます。これらの例からも、当時のRPGがけっして大人にだけ向けたものではなかったことは、明らかだと思います。

当時に「夢幻の心臓II」を紹介していた他の記事の例として、下記のページに「PC-88 GAMEBOOK 別冊ログイン2」(1985.11)の記事が紹介されているのを見つけました。

ログインはパソコンゲームを中心にあつかっていたゲーム雑誌です。この「夢幻の心臓II」の紹介記事の著者は金井哲夫さん。一番最後の段組の中央付近から引用すると「とかくロールプレイングは、マニア的ひとりよがりの傾向に走りがちだが、ユーザーの意見を重視したことで、これだけ高度なシナリオをもちながら、万人向けのものに仕上がっている。」と書かれています。

ネット上でよく見る初代ドラクエへの評価に似ていると思うかもしれませんが、これは「夢幻の心臓II」に対する当時の評価のひとつです。この記事も、ドラクエ以前に上述した方向性がすでにパソコンRPGに存在していたことを示す一例と言えると思います。

ドラクエについて、当時のRPGは難解なものが多かったが頑張ればクリアできるゲームだった、あるいは、当時のRPGはマニア向けのもの多かったがそれを万人向けにしたゲームだった、と指摘する人もいますが、それとほぼ同じ趣旨の評価は、当時のPCゲーム関連雑誌で「夢幻の心臓II」に対してなされていたものでもあったのです

なお、この記事には、「夢幻の心臓II」の開発者が「世界を大きくするより、シナリオを重視しました」と言っていたことも書かれています。ドラクエの開発がはじまるころには、すでに雑誌上で「夢幻の心臓II」がシナリオ重視で作られたRPGとして紹介されていたのです。

ちなみに、初代「夢幻の心臓」の雑誌での評価については下記に書いています。

公平を期すためにここにも書いておきますが、「夢幻の心臓II」にも欠点が全くなかったわけではなく、無理をして先に進んだときなどに、まれにではありますがクリアできない状態でオートセーブされてしまう問題がありました。そのため、クリアするためには、念のために安全な状態で定期的にセーブディスクのバックアップをとっておくことが必要でした。また、城などの通路に狭い場所が多く、うろつく兵士が移動の邪魔になることもけっこうありました。このあたりはまだ改善の余地があっただろうとは思います。

一方で、「夢幻の心臓II」の食料システムまで否定的に言いだす人もたまに見かけますが、このシステムは回復アイテムがなくても食料さえあれば移動している間に少しずつダメージを回復できるシステムでもあります。消費なしに回復する「ハイドライド」よりは不便ですが、終盤になるまで自動回復の手段がないドラクエよりは便利な一面もあるのです。確かに少しわずらわしいシステムですが、自動回復のための消費という側面に全くふれずに否定的に言うのは公平性に欠けると思います。

それから、視界を制限するシステムの採用については、ゲーム的な意味合いのほかに、速度的な理由もあるかと思います。「夢幻の心臓II」は1981年に発売された初代PC-8801にも対応しています。後継のPC-8801mkIISRと比べてかなり非力な機種なので、SRのハイスピードモード(V1H)を使ったときと比べると、初代88の移動速度は「もっさり」とした印象があります。それでも初代88である程度の移動速度が出ているのは、視界制限によってマップの描画量を減らしているからだろうと思います。

あと、「夢幻の心臓II」について全然売れなかったと書いている人もいるようですが、根拠が不明で、自分には本当かどうかよくわかりませんでした。「PCゲーム売り上げ1位の記録を持つザナドゥよりは少ないはず」とか「一般的にファミコンゲームと比べるとPCゲームの売り上げはかなり少なかった」とは言えると思いますが、当時の基準で売れたかどうか判断するなら、同時期の他のPCゲーム(例えばパラディンとかリグラスとか地球戦士ライーザとか)との比較が必要だと思います。もしただの印象や空想でないのなら、後学のためにもぜひ根拠となるこれらの売り上げ本数の資料を示して欲しいところです。自分は資料が手元になくて断言できないのですが、確か当時に何かの記事で「ザナドゥ」「ハイドライドII」「夢幻の心臓II」が3大RPGとして紹介されていた記憶があるので、その記憶が確かなら、それなりに売れていたのではないかなと思っています。

個人的な感想

ちなみに、このページではゲームの個人的な感想はできるだけひかえているのですが、自分も「夢幻の心臓II」は中学生のころにプレイしていて、当然めちゃくちゃ面白かったです(もちろん当時としての話ですが)。

当時の雑誌記事に書かれているように無茶な設定のないゲームバランスでとても遊びやすかったし、敵を倒したり装備を変えたりしてだんだんパーティが強くなっていくなどのRPGが持つ一般的な魅力ももちろんありました。テンキーだけで遊べる操作体系も快適でしたし、プレイ中に戦闘メッセージのスピードを変更できたり、持ちきれない余分なアイテムを一時的にあずける場所があるなど、いろいろな気配りもなされていました。

でもそれだけではなく、大きくリアルなモンスターの絵にはとても迫力と魅力がありましたし、たくさんいる候補の中から誰を仲間にするか考えるのも楽しかったです。洞窟を抜けて新しい世界へたどりついたときのワクワク感、強敵のいる世界や居城をかいま見て感じた恐怖とそこから逃げ帰るときのハラハラ感と人間の世界にもどってきたときの安堵感、最初の難関となる宝箱の前を守る2人の魔物の魅力的な構図と倒せたときの達成感(イースIIでもオマージュされていました)、村人との会話で少しずつ明らかになっていく世界の状況、いろいろな特徴をもった洞窟や塔があるのを知ったときやラスボスの正体を見たときの驚きなど、楽しい要素が満載でした。ゲーム中にヒントが示されていたのに幽霊船の謎に自力では気づけなかったのが心残りです。


おわりに

この文章を書きはじめたとき、2016年の年末にNHKでドラゴンクエストの特番が放送されるという情報が流れていました。ネットを見ているとドラクエの開発開始時期の国産パソコンRPGの状況について間違ったことを書いているページがけっこうあったので、放送前には、NHKがそういった情報に流されて間違いを広げてしまわないかと不安になっていました。

1985年に参考にできたRPGには「ウィザードリィIII」(1983)や「ウルティマIV」(1985)だけでなく、「夢幻の心臓II」や「ハイドライドII」など、たくさんの国産RPGもありました。この4つのゲームを並べて比較するだけでも、ドラクエにどのゲームの影響が色濃く現れているかはよくわかると思います。放送前の当初、NHKの担当者の方々には、そういった事実もきちんと確認したうえで番組を作っていただければと思っていました。

その後、NHKのサイトにディレクターの下記の取材記事が掲載され、内容を読んでさらにに不安になりました。

独占取材! ドラクエ最新作の制作現場に、カメラ潜入!(現在はすでに掲載終了になっています)

ドラクエIVについて、第5章で勇者が登場して旅をしていくと以前に登場したキャラクターたちに会うという、ストーリーの流れが紹介されているのですが、最後に「…そんなゲーム、他にないんですよ。」と書いてしまっていました。このストーリーの流れは「クリムゾンII」(クリスタルソフト)が「マルチシナリオ・リンク方式」としてドラクエIVよりも前に実現していたもので、ドラクエ特有のものではありません。「…そんなゲーム、自分は経験したことがなかったんですよ」と書くぶんには何も問題ないと思うのですが、「…そんなゲーム、他にないんですよ。」と書いてしまったらドラクエが最初に実現したという誤解が広がってしまいます。番組本編でも同じように誤解をさそう表現や間違った情報が世間にばらまかれたりしないか、とても心配でしたし、それが杞憂に終わって欲しいと願っていました。 

そして、12月29日に「ドラゴンクエスト30th そして新たな伝説へ」というタイトルで番組が放送されたので見たのですが、少しだけ気になるところはあるものの、無難な感じの内容になっていました。ウィザードリーとウルティマの話に関しては、あくまでも開発前に「2つのいいとこ取りをしようという話をしていた」という、きっかけレベルの話だけで止めていてほっとしました。具体的には、中村さんと堀井さんとで「ウィザードリー派とウルティマ派の二人なんで、話をして、じゃあお互い良いところを取って混ぜ合わせようよ」っていう話になって、堀井さんが鳥嶋さんに「ウィザードリーとウルティマの良いとこ取りでやりたい」という話をしていた、という内容にとどまっていました(「その話をした後で実際には何を参考にしてどう開発したか」については番組では全くふれていない)。 ウィンドウシステムについても、そういうシステムにしたという内容だけで、ドラクエが最初だったという嘘はついていませんでした。もし、ドラクエで自分たちが独自にウィザードリーとウルティマを組み合わせたシステムを考案して開発したんだという内容になっていたり、2DRPGでウィンドウシステムを使ったのはドラクエが最初だったと嘘をついたりしていたら、強く批判せざるをえないなと思っていたので、そこは安心しました。

願わくば、「夢幻の心臓」「夢幻の心臓II」(ウィザードリーとウルティマの良いとこ取りをして、それを日本向けにアレンジした先駆者として)や、「ハイドライドII」(2DRPGでのウィンドウシステムの先駆者として)、「ザナドゥ」(BGMを演出に使った先駆者として※クラシック風BGMのRPGでの利用はウルティマIIIや国内だとメルヘンヴェール等からありましたが)などの国産パソコンゲームについてもふれて欲しかったなと思いました(まぁ、時間的にも内容的にも難しいだろうなとは思いますが、いつか将来、まんが夜話やアニメ夜話みたいな感じで、ちゃんとPCゲームの知識がある人も加えたうえで、ゲーム夜話みたいなのをやって欲しいかな)。


おわりのおわりに

ドラクエの歴史的な位置づけとして「ウルティマとウィザードリーのいいとこどりをしたうえで、独自にアレンジして日本人向けに遊びやすくしたゲーム」というような趣旨の説明をけっこう見かけます。いろいろ調べてみた自分としては、この説明はあまり適切ではないと思っています。ドラクエには、当時の国内外のパソコンゲームの様々なアイデアや方向性がかなり多く取り込まれているためです(いくつかある独自の要素はファミコンへの実装と小学生中心というプレイヤー層に関わる部分に集中していて、それ以外の新しいとされてる要素のほとんどはドラクエ以前から存在している)。今の自分が説明するなら、こうなると思います。

「ドラクエは、当時の国内外のパソコンRPGが持っていた様々な画期的なアイデアや方向性(ウルティマとウィザードリィを組み合わせるアイデアや、マルチウィンドウを採用するアイデア、死んでも王様に復活させるというアイデア、日本人向けに表現を工夫するという方向性や、難易度や遊びやすさを万人向けにするという方向性など)のうち、おもしろい要素やあそびやすい要素をファミコンで扱える範囲で多数取り込み、実装可能な形にして小学生低学年でも遊べるようにアレンジしたRPG」。

誤解を恐れずにもっと短く言うなら「当時の国内外のPCゲームの良いところをつめ込みまくって小学生向けにしたファミコン用RPG」ということになります。ウィザードリィとウルティマのいいとこどりをするところから日本人向け・万人向けを意識するところまでをふくめて当時のパソコンゲームの文化をファミコンへ持ち込んだゲームのひとつなのだと思います。

こう考えると「ウィザードリィとウルティマを編集した」という指摘だけでなく、「夢幻の心臓シリーズのパクリだ」という指摘や、以前、自分が別の文章に書いた「夢幻の心臓II」と「ハイドライドII」のいいとこどりという指摘もたぶんあまり適切ではなくて、「既存のいろんなPCゲームの要素を取り入れているけれども、その中では夢幻の心臓シリーズやハイドライドシリーズの要素が多く、特に骨格の部分や要素の組み合わせ方や遊びやすさなどの方向性は夢幻の心臓IIに近い形になっている」ということなのだろうと思います。

いろいろと調べて文章を書いてきましたが、自分の今の結論としてはこんなところです。


このページの主旨に関する補足

このページの主な目的は、当時のPCゲームに関する間違った説明や誤解をまねきかねない解説などに対して、根拠を示したうえで内容の訂正をおこない、関連する様々な情報を提供し、誤情報をこれ以上拡散しないように注意をうながすことにあります。

例えば「Doom」に対して「Maze War」を提示するような、「起源」を見つけることは、このページの目的ではありません

「Doom」の例でいうなら、仮に例えばネット上に「それまでのゲームでは迷路内では90度の回転とブロック単位での移動しかできなかったが、自由に移動できるところが他のゲームにはない画期的なことだった」という指摘があったとします。このページの目的は、このような指摘に対して「その内容は間違っています。「Ultima Underworld」(Origin Systems, 1992)でも自由に移動できましたし、他の様々なゲームでもこの仕組みは採用されています。例えば日本のパソコンゲームでは「シーナ」(システムソフト, 1986)というゲームでも採用されていました。みなさんはこれ以上間違いを広げないように注意してください」というような、間違いの訂正と情報提供と注意喚起をすることです。

「ドラゴンクエスト」についても、私は別のひとつのゲームを「起源」として示すような「雑」なことはしていないと思います。「ウルティマ」と「ウィザードリー」だけが「起源」であるかのような記述に対して、それ以外にも多数のゲームのアイデアや方向性がドラクエには取り入れられているということを、当時の様々な情報を提供しながら説明しているつもりです。

特に昔の国産PCゲームについては、根拠のない不正確な情報がネット上に多く見うけられます。また、一般には信頼されている専門家や研究者や学者、有名なライターや開発者や編集者が書いたものの中にも、残念ながら調査不足や不適切だと思われるものがあります。そして、今後も増える懸念があります。私も間違えることはありますし、たいしたことはできないかもしれません。それでも、私は当時の資料や具体的なゲームの内容にもとづく情報提供は重要だと考えて、この文章を書いています。このページの主旨を適切に理解していただけると嬉しいです。


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ドラクエ以前のPCゲーム関連の文章一覧
更新履歴
2024/3/10 参考にできた要素にいくつか情報を追加(ドラクエII以降の要素の場合にはそれを明記)。スライムに関する注意喚起を追加。広めたという紹介の誠実さについてコメントを追加。赤字で強調する場所を少し増加。
2024/2/17 パソコンの価格について、当時と今とでは物価が違うという指摘があったので、当時の大卒初任給に関する情報を追加。
2024/1/8 文章一覧へのリンクを冒頭に追加。
2023/8/15 地球戦士ライーザに関する文章に加筆をして見出しを追加。表現の細かな修正 など。
2023/8/5 RPGのポップな絵柄とエンディングに到達できるゲームについて、「国産RPGクロニクル」という書籍から抜粋した記事をきっかけにして書いた文章へのリンクを追加。初代「夢幻の心臓」の当時の雑誌の評価について書いた文章へのリンクを追加。冒頭に関連して書いた文章一覧へのリンクを追加。
2023/6/25 海外のゲーム名の一部を英語表記に変更。PCゲーム人口の規模感に関する補足を追加。価格の引用のカッコ内が引用者による補足であることを明記。クエストという名称を含むゲームに海外のキングスクエストの事例を追加。
2023/6/9 スライムの変遷の図にメルヘンヴェールのプーカアレーナを追加し、5/20に追加していた文章を削除。名称がスライムでないものも含めていることを追記。「女子寮パニック」の情報を追加。メーカー名付記の追加。
2023/5/23 地球戦士ライーザがアドベンチャーゲームの特徴を持つゲームだという根拠を追記。
2023/5/20 音楽の話にインタラクティブミュージックに関する情報を追加。スライム風のモンスターの事例にメルヘンヴェールのプーカ・アレーナの名前を追加。いくつかのゲームの記述にメーカー名を付記、ファンタジアンのマニュアルに勇者と魔王の表記があることを追記。赤字で強調する部分を少し増やした。
2023/5/14 一本道のRPGに関する話題として「地球戦士ライーザ」とJRPGの話を追加。ベーマガのコーナー名の表記ミス等の修正。このページを英語で紹介してくれた方がいて、そのことはとても嬉しいのですが、主旨に関して気になる指摘があったので、最後に補足を追加しました。
2023/5/5 当時のパソコンの価格の話を追加。ミコアケが以前のコマンド選択式と比べて規模の大きな国産AVGだったことを追記。
2023/4/27 ミコアケの選択式に関する当時の情報を追記。チャレアベの書籍について書いた文章へのリンクを追加。マイナーという表現への懸念の文章をわかりやすく修正して章に分離。ドラクエ以前から存在した要素に攻撃呪文の話を追加。
2023/4/16 当時の雑誌投稿者の年齢層について文章を書いたので、夢幻の心臓IIの当時の評価のところにそこへのリンクを追加
2023/3/21 3人称視点の戦闘としてザ・ブラックオニキスの事例を追加し、リザードと海外版ファンタジーの画像を引用。RPGのシステムをシンプルにする試みの話の最後に、月刊ログインの特集記事の話題と用語の使い方に関する注意喚起の文章を追加。
2023/2/13 学者や研究者などの肩書をもつ人でも間違えることがあるとわかるように注意喚起をするひとことを追加。勇者と魔王の事例として「聖なる剣」の話を追加。3人称視点の戦闘の事例に「コズミックソルジャー」の名前を追加。表現の一部修正。
2023/2/4 三人称視点を用いた海外のアドベンチャーゲームの画面を引用。PC60系やMSXのゲームで「ひらがな」が使われていたことと、メルヘンヴェールの98版で漢字が使われていたことを明記。表現の一部修正(イーアルカンフーの未使用文字の使用頻度が低いことを明確化)。薬の数値による管理の話をドラクエ以前から存在した要素に追加。
2023/1/23 主人公のセリフの表現の話の最後に結論を追加。
2023/1/17 当時のゲームの日本語と英語の使われ方の話を追加。他分野のプロの参加が確認できるレリクスとブラスティの画面を引用。
2023/1/3 スライムの画像を引用。「経験値」の使用例に「クルーズチェイサー・ブラスティ」の紹介記事の例を追加し「ザ・スクリーマー」の記事とあわせて誌面の画像を引用。
2022/11/13 メルヘンヴェールのフィールドで使われていた曲の情報を追加。RPGのシステムをシンプルにする試みにハイドライドの話とまとめ的な文章を追加。目次の調整。
2022/6/27 勇者と魔王の構図とそこからの脱却をはかる事例を追加。初代「夢幻の心臓」で様々なモンスターがひとつの世界に混在している理由の説明を追加。
2022/6/11 夢幻の心臓IIの戦闘画面の構成がシンプルだったことを示す画像と文章を追加。
2022/5/3 初代夢幻の心臓のゲーム内で勇者と魔王という単語が使われていた事例を追加。
2022/2/6 初代夢幻の心臓の操作方法を説明した文章へのリンクを追加。Dragonstomperの操作方法の説明を追加。表現の一部修正。紹介の仕方に関する話に見出しを追加。重要な部分を赤字で強調しました。
2021/11/3 ファンタジアンで「勇者」と「魔王」の用語と構図が使われていたことを追記。要素の一覧に立体的な壁の表現とラスボス専用BGMの話を追加。スライムの話に補足を追加。
2021/10/9 夢幻の心臓IIがジョイスティックで遊べたことと、アークスロードのマニュアルで勇者と魔王の単語が使われていたことを示す外部の資料へのリンクの情報を追加。
2021/7/21 細かな部分で少しだけ表現の加筆をおこないました。
2021/7/5 独自のモンスターを採用した事例として「覇邪の封印」と「メルヘンヴェール」の画像を引用して解説を充実させました。「その他」の項目にリソース管理とパーティ制に関連したシステムをシンプルにする試みの話を追加しました。引用の意図を明確にするための文章やハイドライドIIの視野に関する文章を追加しました。あまりにもひどい発言があったのでPCゲームの規模の話の最後にコメントを追加しました。
2021/3/20 初代ドラクエ紹介の記事を少し目立たせました。
2021/3/9 PC88版ハイドライドのスライムについて、移動速度や配置場所なども考慮して総合的に見ればゲーム中で最も弱いモンスターと言えるのですが、ステータスだけを見るとコボルトのほうが弱く設定されているので、誤解を避けるために「最弱」の表記を削除して補足の説明を追加。
2021/2/22 歴史に名を残さなかったという表現に対する指摘の話題の追加。今まで調べてきた知識を使って書いた初代ドラクエの紹介をする文章へのリンクを追加。 その他細かい修正など。
2021/2/7 スライムの話にDragonstomperの話題を追加し、これまで書いたものが日本限定の話であることを明記。ザ・スクリーマーの発売元と東本昌平さんの漢字を書き間違えていたのを修正。
2021/1/31 アークスロードのゲーム内で勇者と魔王の単語が使われたシーンの画像の引用を追加。その他、細かい修正など。
2021/1/17 経験値という表現の話に見出しをつけたうえで、当時この表現がPCゲーマーの間で普及していた根拠を追加。カッコ書きだった懸念を文章化して結論を追加。その他、細かい修正など。
2020/11/20 ドラクエ以降のながれも含めた話題として、戦闘システムの視点表現、主人公のセリフの表現、パソコンRPGのセーブ機能、の話を追加。
2020/11/10 他分野のプロのゲーム制作への参加に関する文章を追加。
2020/11/8 当時のRPGが大人だけに向けられたものではなかったことを、夢幻の心臓の当時の評価の項目の中に追記。その他、細かい修正など。
2020/9/10 アークスロードのゲーム内での「勇者」と「魔王」の単語を使った具体例を追記。
2020/9/6 勇者のイメージに関する説明とAVGにRPGパートを持たせるアイデアについての説明を追加。その他、細かい修正など。
2020/2/21 冒頭の説明文の順序を調整。会話の例としてシルヴィアを仲間にしなかったときの状況を追加。その他、細かい修正など。
2020/2/08 復活の仕組みの話を章立ての形に変更。
2020/2/03 PCゲームユーザの規模の話にハイドライドの事例を追加。その他、細かい修正など。
2019/12/25 パソコンとファミコンの住み分けの話にAVGの描画の話を追加。
2019/10/9 サブ項目が増えたので、目次にもそれを反映。AVGの瞬間画面表示の話を追加。
2019/8/18 タイトルの話題にドラゴンと戦士が対峙するパッケージイラストに関する話題を追加。
2019/8/3 一部に見出しを追加したり長めの段落を区切ったりして読みやすくした。その他、意図が明確に伝わるような表現の追加や細かい表現の修正など。
2019/6/12 操作体系に関連する話として、コマンド選択式AVGに対する誤解について説明した文章を追加。その他、細かい修正など。
2019/6/1 ストーリーを語る手法としてのRPGについて書いた文章に細かな見出しをつけて整理。具体例を示すために画像を引用。サマルトリアの王子が離脱するイベントがリメイク時に追加されたものであることを追加。その他の項目にパソコンとファミコンの住み分けの話とPCゲームユーザの規模に関する自分の経験の話を追加。
2019/5/12 スライムの話にオモチャのスライムの話を追加。その他、表現の修正など。
2019/4/28 物語を描いたゲームに関する文章に情報を追加。その他、表現の修正など。
2019/4/20 その他の売上げに関する文章に逆方向から見たPCゲームユーザの規模の話を追加
2019/3/22 ジオシティーからの移転が完了したので移転中を示す表示を除去。一部の表現を少し修正。
2019/2/22 スマホで見てレイアウトが崩れないように画像の扱いを変更。表現などの細かい修正など。
2019/2/14 RPGの主人公が若者や少年として描かれている事例を追加。
2019/1/28 スタークラフトの移植に関する文章へのリンクを追加。
2019/1/18 その他の項目に、ファンタジーに関する記述を追加。
2018/12/15 スライムの弱いイメージについての文章を追加。細かい表現の修正。
2018/11/14 ハイドライドIIの広告のプロローグに掲載されていた異世界召喚の要素と子ども向け主人公の話を追加。
2018/11/9 開発者名の扱いの記述を追加。ザ・クエストとリングクエストの画面を引用して解説を追加。一部の表現の修正
2018/10/7 一本道と自由度に関する文章を追加。リザードとハイドライドのアイテムに関する扱いの記述を追加。
2018/5/29 HTMLの一部に問題があったので修正
2018/5/20 スタッフロールとエンディングの演出の話を別ページから移動して詳しい解説を追加。
2018/4/22 クエストロンの復活の仕組みの話を追加。
2018/4/6 漫画的な文章表現の話を追加。最後に「おわりのおわりに」を追加。
2018/3/25 夢幻の心臓IIのスタート地点の工夫の話を別ページから移動してさらに詳しい解説を追加。歴史のもしもの話を追加
2018/3/10 市場規模の違いに関する推測を追加。その他細かい修正。
2018/1/8 目次を追加。文章の細かい修正など。
2017/12/26 RPGでストーリーを語ることに関する記事へのコメントを追加。
2017/12/13 移動をサポートする魔法に関する記述と組み合わせの巧みさに関する記述を追加。
2017/11/15 世界観にあわせてシステムを表現する工夫の話を追加。文章の細かい修正など。
2017/10/18 ネットであがっている指摘に関する文章が充実してきたため、見やすいように全体の構成を変更。
2017/10/1 復活の仕組みに関連して堀井雄二さんのインタビュー記事に関するコメントを追加
2017/9/23 序盤のレベルアップに関する情報を追加
2017/9/18 復活の仕組みについて別のページに書いていたが、誤解が広がる可能性のあるページを見つけたため、このページにも別の視点から情報を追加。ウルティマ4の死んでも復活する仕組みについて、経験値を失わずに復活することを明記。
2017/8/27 日本語表現の工夫について、誤解が広がる可能性のあるページを見つけたため、要素として軽くあげるだけでなくきちんと文章にしたものを追加。
2017/5/10 ファミコンゲームでタイトルに「ドラゴン」を含むものを調べた結果を追加。
2017/5/3 要約のページから参照できるようにIDを追加。
2017/4/29 ネットでよく見る指摘の文章に、操作体系に関する説明とタイトルに関する補足を追加。
2017/4/17 アイテムを3つ集めると先へ進める仕掛けに関する話に夢幻の心臓IIの記述を追加。
2017/4/15 RPG的な意味での「経験値」の使われ方の変遷を論じたページの情報を追加。参考にできた要素の表現等の修正。
2017/4/8 プレイヤーの名前の話を推測から事実の話に修正。その他として売上に関するコメントを追加。夢幻の心臓IIの個人的な感想を追加。
2017/3/25 ネットでよく見る指摘について文章の追加、見出しの整理、モンスターの画像の引用を追加。
2017/1/18 NHKの番組に関するコメント全体について、進行形で表記していたものを過去形に書き換え、現時点で違和感なく読めるようにしました。
2017/1/3 マイコンBASICマガジンから引用した補足資料に関する記述を追加
2016/12/29 NHKの番組を見た結果のコメントを追加。
2016/12/18 NHKのディレクターの取材記事に関するコメントを追加。
2016/12/14 RPGを日本向けにアレンジした前例を追加。その他細かい修正など。
2016/11/18 戦闘メッセージやマップチップなどドラクエ開発時に参考にできた要素をまとめた文章を作成して公開。