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ドラクエ以前の国内パソコンゲーム(本文)

このページでは、あるネット上の記事への疑問をきっかけにして書いた、ドラクエ以前の日本国内のパソコンゲームの状況を説明した文章を掲載しています。

このページはかなり長文です。また、記事への反論の形で書いてあるため、まわりくどい書き方もしています。全体の概要は下記のリンク先にまとめてあるので、概要を知りたい方はそちらを参照してください(関連する一連の文書は「要約のトップページ」を参照)。

このページを書くために今まで調べてきた内容を短くまとめて、初代ドラクエを紹介する文章を書きました。ぜひ読んでみてください。

ドラクエ以前のPCゲームに存在した様々な要素は下記にまとめてあります。

このページに関連してこれまでに書いてきた様々な文章を一覧できるページを下記のリンク先に作りました。全体を把握したい方はぜひご参照ください


【時限】2023年2月24日の「はてなブックマーク」の「アニメとゲーム」の人気エントリーにこのページが載りました。関心を持っていただいた方ありがとうございます。長文で複数ページにもわたっているので、おそらく詳細までは読まずにコメントなどをした方もいると思いますが、当時の「ヒントの具体例」や「数十万の根拠」なども説明してあるので、時間があるときにでものんびり読んでいただけると嬉しく思います。


はじめに

今年、2016年はドラゴンクエストが生まれて30周年の年なんだそうです。おめでとうございます。

さて、ドラクエ30周年ということで、いろんな記事が出てるなぁと思いながらWebページを眺めていたのですが、そのときに下記の記事に目がとまりました。

2016年の6月ごろに書かれた記事ですが、この記事では第1回目にドラクエが生まれるまでのゲームの歴史をまとめ、第2回目にドラクエの特徴をくわしく解説しています。内容はとても充実しているものの、国内のパソコンゲームについて述べている部分にとても違和感がありました。

特にドラクエが発売される時期にRPGが「逆境」にあったという部分については、自分の経験や実感とはかなりかけ離れたものでした。ドラクエを特別なものとみなしたいがために、それまでの国内のパソコンゲームの歴史をゆがめているような印象すら感じてしまいました。

そこで、自分が当時楽しんでいた国内パソコンゲームが正しく評価されてほしいという思いから、この文章を書くことにしました。とは言っても、自分はゲーム史の研究家などではなく、そのころの雑誌などの参考資料も持っていません。しかし、幸いなことに、下記のPC88ゲームライブラリのページにPC88系のゲームの資料がまとめられていました。

PC88ゲームライブラリ
http://www.gamepres.org/pc88/

このページのデータを見ながら自分の記憶を思い出し、Web上にある昔のゲームのプレイ日記やプレイ動画なども参考にしながら書かせてもらいました。自分は専門家などではなく、現時点でわかっている範囲で書いていますので、内容やページの構成などは後日変更や修正をする可能性があります。あらかじめご了承ください。

願わくば、自分の書いた文章をきっかけに、国内のパソコンゲームについてもくわしいゲーム史の研究家などによる資料に基づいた適切な分析がなされることを祈っています。

※なお、この文章の中には、当時のパソコンゲームのネタバレ的な内容もふくまれています。ご注意ください。


目次

この文書の概要は下記で閲覧できます。


自分が考えるドラクエの功績について

この文章はドラゴンクエストを批判するためのものではありません。とてもすばらしいゲームですし、RPGの普及に大きく貢献したゲームであることは間違いないと思います。 自分がドラクエの功績として高く評価していることは次の3つです。

  1. パソコンでしか遊べなかったRPGを、プレイ人口の多いコンシューマゲーム機であり、かつ、処理性能が低いファミリーコンピュータ用のゲームとして完成させたこと。
  2. 主に中高生以上の年齢層に向けて作られることが多かったRPGを、小学生のような低年齢層やはじめてRPGにふれる人などでも楽しめるゲームとしてデザインしたこと。
  3. 上記に加えて宣伝の手法などを工夫し、PCゲームを知らないに人たちにRPGをひろめたこと。

ひとことで言うと「国内のPCゲームで花ひらいていた文化をコンシューマ機へと伝える重要なゲームのひとつだった」という評価をしています。

前述した「ゲーム語りの基礎教養」の記事で使われている「編集」という単語は、おそらく上に書いた(2)の視点、つまり、さまざまな工夫をすることによって小学生や初心者でも楽しめる形にしたことを意味しているのだろうと思います。ただ、それを強調するあまり、すでに国内のパソコンゲームで実現していた様々なことを、あたかもドラクエに特有のもの、あるいはドラクエではじめて花ひらいたものであるかのように語っているようにも思えてしまいます。

当時の国産パソコンRPGを否定したり、あるいは当時の国産RPGですでに達成されていたことをなかったことにしたり価値の低いものとみなしたりしなくても、ドラゴンクエストは十分にすばらしく、大きな功績のあるゲームです。適切に評価していくことが大切なんだろうと思います。

※なお、マニアックなものを万人向けにしたという指摘もたまに見ますが、同様のことは当時の雑誌で「夢幻の心臓II」に対して書かれていました(詳細)。 ですから、上の指摘はそういう意味ではなく、あくまでも「中学生くらいなら十分に楽しめていたものを小学生などの低年齢層でも遊べるものにした」という意味です。また、当時のPCゲームでは、中学生や高校生に向けてもRPGが紹介されて楽しまれていたので、当時のRPGが大人向けだったかのように書くのもやめたほうがいいと思います。

※プレイ人口については、ヒット作の概算ですが、数十万人の規模で楽しまれていたPCゲームで大流行していたRPGを、数百万人の規模のファミコンへ広げたという意味です(詳細)。

※それから、上記の処理性能の話はあくまでも全体的な話であって、ハードウェアスクロールやスプライトなどの一部の機能は当時のほとんどのパソコンには搭載されておらず、この点に限ってはファミコンの方が優位だったと言えると思います。

このページを書くために今まで調べてきた内容を短くまとめて、初代ドラクエを紹介する文章を書きました。ぜひ読んでみてください。


ドラクエ販売時に国内RPGが逆境にあったのか?

「ゲーム語りの基礎教養 」の第1回目の記事(初代ドラクエはRPGへの逆風の中に生まれた−ドラクエ以前の国内RPG史に見る「苦闘」の歴史)で一番違和感が強かったのは、ドラクエ販売時に国内RPGが逆境にあったと主張している点です。

結論だけ先に述べると、この記事は1985年の年末にRPGの新作発売ラッシュがおきたことと、そこに至るまでの国内RPGの流れに一切触れていないところに問題があると思います。 ドラクエが発売されたのは1986年5月。そこへ至るまでのパソコンゲームの流れを PC88ゲームライブラリ を見ながら たどりたいと思います。

1982〜1983年

このライブラリサイトは、機種がPC88系に限定されてはいるものの、パソコンゲームのかなり初期の1982年ごろからの市販ゲームの情報がまとめられています。 初期のパソコンゲームでは、シミュレーションゲーム、アクションゲーム、アドベンチャーゲームなどが中心となっていました。

先の記事にもあるように、そんな中で1983年5月に光栄が広告で国内初のロールプレイングゲームと銘打って「クフ王の秘密」というRPGを発売しました。その後、光栄以外の様々なメーカーからも、例えば「ポイボス」(大名マイコン学院)や「聖剣伝説」(コムパック)、「バウンドット」(日本マイコン学院)、「ぱのらま島」(日本ファルコム)などのRPGが発売されました。

しかし、一部のコアな人気を獲得していたとは思いますが、一般的には、これらのRPGよりも、アドベンチャーゲームの方に人気が集まっていたように思います。

ライブラリを見ると、1983年5月に海外の名作AVG「ウィザード&プリンセス」が国内のパソコンに移植されています。同月に「イカロス」(プロシューマー)というゲームが「コンピューターノベル」をうたって販売されていたようで、このころから、すでにパソコンゲームで物語を描こうという試みがなされていたことがわかります。

この年の6月には「ポートピア連続殺人事件」(エニックス)のPC88版、8月には「ドリームランド」(マイクロキャビン)や「黄金の墓」(マジカルズゥ)のPC88版、10月にはスターアーサー伝説「惑星メフィウス」(T&Eソフト,FM-7版は同年7月)や「鍵穴殺人事件」(シンキングラビット)、12月には名作「デゼニランド」(ハドソンソフト)など、話題をよんだアドベンチャーゲームの数々が発売されています。

1984年

アドベンチャーゲームの人気は1984年も続きます。1月にSFアドベンチャーゲームの「タイムシークレット」(ボンドソフト)や「アビス」(ハミングバードソフト )、3月には瞬間画面表示で話題になった「デーモンズリング」(日本ファルコム)や、国産初のコマンド選択式アドベンチャーゲームといわれている「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」(システムソフト)、テープ版の特性を生かしてオープニングの主題歌などを流した「機動戦士ガンダムPART-I」(ラポート)、6月にスターアーサー伝説の続編「暗黒星雲」(T&Eソフト)、7月にはこれも名作となる「サラダの国のトマト姫」(ハドソンソフト)、10月には「新竹取物語」(ビクター)が発売されています。

そして、11月には漫画が原作のゲームとしてヒットをとばした「ウイングマン」(エニックス)や、ゲームブック風のコマンド選択式のテキストアドベンチャーゲーム「コリドール」(光栄)、12月には「はーりーふぉっくす」(マイクロキャビン)や、タイムシークレットの続編でありマルチエンディングを採用して話題となった「タイムトンネル」(ボンドソフト)などが発売されています。そういえば、タイムトンネルのエンディングには敵のさそいにのって敵の跡継ぎになるなんてルートもありました。「オホーツクに消ゆ」(アスキー)が発売されたのも12月のようです。

このように1984年はアドベンチャーゲームの発売ラッシュが続いていました。RPGはというと、1984年1月に「ブラックオニキス」(BPS)が発売されてRPGの面白さは認識されはじめていた(3月に「夢幻の心臓」(クリスタルソフト)、9月にブラックオニキスの続編「ファイアークリスタル」(BPS)が発売さている)ものの、アドベンチャーゲームとくらべるとこの時期は苦境に立たされていたと言えるかもしれません。

しかし、1984年の年末からその流れを変えるRPGが発売され始めます。ライブラリによれば、アクションRPGとして一時代を築く「ドラゴンスレイヤー」(日本ファルコム)と「ハイドライド」(T&Eソフト)が11月と12月に発売されています(ドラスレは9月発売だったとの情報あり)。一方、一般的なRPGとしては「リザード」(クリスタルソフト)が発売されています。リザードはブラックオニキスをさらにシンプルかつコミカルにして遊びやすくした感じのRPGです。

ハイドライドとリザードは、どちらもRPGの初心者でも遊べることを志向したゲームになっていました。両方とも表示の一部に英語が使われていたり、ハイドライドの方は途中に理不尽な謎解きがあってクリアが難しかったり、リザードの方はパーティ制を排除した1対1の戦闘システムを採用していて頑張れば誰でもクリアできるようになっていたもののイベントがほとんどなく単調で継続するのが難しいという面はあったようですが、特に導入部分から中盤くらいまではどちらも小学校高学年くらい以上であれば十分に楽しめるものになっていました。

実際、自分も小学生のころに友達の家に通ってP6版ハイドライドを十分に楽しんでいました。しかし、途中でいきづまり、最後までクリアすることはできませんでした。ドラゴンクエストのような、小学生低学年でも最後まであまり飽きずに楽しんでクリアできるほどの調整がなされていたかと問われたら、少し難しい面はありますが、この時期に初心者向けを志向したRPGは発売されていたと言えると思います。

1985〜1986年

さて、アドベンチャーゲームの人気は1985年に入っても続いていきますが、同様に有名なRPGも次々に発売されるようになっていきます

アドベンチャーゲームの方では、1985年の1月に「サザンクロス」(バンダイ)、2月に「アステカ」(日本ファルコム)、3月に「道化師殺人事件」(シンキングラビット)、5月に「軽井沢誘拐案内」(エニックス)、7月に「アビス2帝王の涙」(ハミングバードソフト)、そして9月には全編アニメーションを目指して作られたアドベンチャーゲーム「WILL」(スクエア)などが発売されています。

その一方で、RPGでは2月に「ファンタジアン」(クリスタルソフト)が発売されます。このゲームはウィザードリー風の3Dマップによる移動と、ウルティマ風のタクティカルな戦闘をリアルタイムにしたものを組み合わせたゲームになっていました。夢幻の心臓2やドラゴンクエストとはちょうど逆の組み合わせで作られたゲームです。 今からふりかえってみると、クリスタルソフトは海外のRPGのさまざまな要素を組み合わせたうえで独自の要素を入れる挑戦を繰り返していたようにも見えます。

4月にはドルアーガの塔に強く影響をうけたアクションRPGの「デーモンクリスタル」(電波新聞社)、5月にはカルト的な人気を獲得したサイバーパンクバイオホラーRPG「ザ・スクリーマー」(マジカルズゥ※10月に発売延期されていたとの情報あり)、6月には「アークスロード」(ウィンキーソフト)や「上海」(スタークラフト)、7月にはSFアクションRPG「エプシロン3」(BPS)が発売されています。

「アークスロード」は初代「夢幻の心臓」と「ブラックオニキス」を組み合わせたような雰囲気のゲームで、ラスボス戦では人型の敵を倒すとドラゴンとの戦闘になる演出がなされていたようです。「上海」は、海外ゲーム移植中心の会社スタークラフトがアリババという海外ゲームのシステムをベースにして作ったオリジナルのRPGです。知名度こそあまりありませんでしたが、4方向キーだけでほとんどの操作ができ、移動速度も早く、とても遊びやすいゲームでした。続編も2本作られるなど、かくれたファンをつかんだゲームでした。

そして1985年の年末から、RPGの怒涛の新作発売ラッシュが始まります。 10月に「ザナドゥ」(日本ファルコム)、「ハイドライド2」(T&Eソフト)、「コズミックソルジャー」(工画堂)、「トリトーン」(ザインソフト)、11月に「夢幻の心臓2」(クリスタルソフト)、「地球戦士ライーザ」(エニックス)、12月に「パラディン」(ボースティック)、「ルパン三世カリオストロの城」(東宝)など。ライブラリによると、「ウィザードリー」と「ウルティマ3」がPC88版として移植されたのもこの月のようです。

1986年に入っても、この流れは続き、1月に「リグラス」(ランダムハウス)、4月に「ブラスティー」(スクエア)、そしてドラクエ発売直後の6月には「ロストパワー」(ウィンキーソフト)や「レリクス」(ボースティック)、「上海」の続編となる「九龍島」(スタークラフト)が発売されています。このころはまさにRPGブームが起きていた時期でした。

ちなみに、記事で紹介されていた光栄がこのときに販売したゲームは「タイムエンパイア」。江戸時代を舞台にしていたり、会話メッセージがフキダシの中に表示されるなど、興味深い試みも多くなされていたのですが、ゲームオーバーになるとそれまでのセーブデータが全て消去されるなど、この時期に遊ぶには厳しいシステムを採用していて、プレイした人の中には悪い評価を下す人もいたようです。RPGブームの中で光栄のRPGが逆境に立たされていたということは言えるのかもしれません。

PC88ゲームライブラリから見た情報からわかるように、日本国内のパソコンゲームでこのようなRPGブームの大きな追い風がおきたちょうどその後の1986年5月に、ファミコンでドラゴンクエストが発売されたと言えると思います。

ちなみに、初期の国産RPGとAVGの発売時期について有名なものを中心に整理したページを作ってみたので、全体の流れをざっとつかみたい方は下記のリンク先を参照してみてください。

初期の国産パソコンRPGとAVGの発売時期

自分と同じように感じていた方のページがあるので下記に紹介したいと思います。

月刊ログイン1985年11月号の「読者が選ぶTOP20」からの引用にもとづいて、RPGが当時のパソコンゲームのユーザに人気があったことを分析されています。

また、実家に古いマイコンBASICマガジンがあったので確認したところ、1985年12月に「チャレンジ!ロールプレイングゲーム」の連載がはじまっていました。このことからも、1985年の年末にRPGブームがおきていたことが見てとれると思います。

ネットを見ていると、初代ドラクエの発売時期にはPCゲームでもRPGはマイナーだったと書かれているのをたまに見かけますが、当時のPCゲームの雑誌記事などを見るかぎり、それは完全に間違いだといって特に問題はないでしょう。アクション要素をどのくらい含むか含まないかに関係なく、RPG全般が人気ジャンルのひとつになっていました。

この時期にはランキングの上位をRPGが独占していたわけですから、例えば「PCゲームの中でも少数のコアゲーマーだけが遊ぶものだった」などといった指摘も不適切だと思います。むしろ「当時のRPGはPCゲームを楽しんでいた中学生・高校生もふくむプレイヤーたちの間で大流行していた」と書く方が適切でしょう。

※なお、PCゲームの年齢層については読者投稿の例を「雑誌のQ&A記事」に記載しています。

日本のRPGの歴史としては、「ドラクエの開発時期には、RPGはPCゲームに関心がある層にはすでに知れわたっていて、国産のものも含めてかなり人気もあったが、ファミコンやアーケードを中心にゲームをしていた層にはあまり知られていなかった」というのが実情だったといえるだろうと思います。


夢幻の心臓シリーズは詰め込みすぎて失敗したのか?

「ゲーム語りの基礎教養 」の記事には、「夢幻の心臓」の苦戦という章があります。著者はその中で、夢幻の心臓シリーズについてとりあげ、初代「夢幻の心臓」と「ドラゴンクエスト」が似ていないことを画面などを見せながら、文字を赤字にすることまでして、意図的に強調しています。

もちろんその指摘には正しい部分もあると思います。なぜなら、わかりやすさ・遊びやすさという点では、初代「夢幻の心臓」ではなく、その続編の「夢幻の心臓II」の方がドラゴンクエストに似た要素を多くふくむからです(絵的なチップをならべたマップの表現や、ランダムエンカウントによる1対1の戦闘システムや、ひとつのマップで行動範囲を広げていくゲーム性など、初代のほうが似ている部分もたくさんありますが)。

夢幻の心臓IIに対する間違いについて

先の記事の夢幻の心臓について述べている章では、ひととおり初代「夢幻の心臓」の批判をしたあと、「夢幻の心臓II」についてもふれています。しかし、そこでは初代からの改善点も述べてはいるものの、文章の位置づけとしては、後半に行われるシリーズ全体への批判の導入として残念な印象をあたえる役割をもって簡単に述べているだけにすぎません。

そして、ウルティマやウィザードリーを生んだ海外とくらべ、日本にCRPGの蓄積がなかったかのように述べたうえで、「夢幻の心臓」シリーズは2Dと3Dの両方を含めるなど、つめ込みすぎをして失敗した、と、とれるような文章を書いています。「「ウルティマIII」では2Dマップだけに絞り込まれていた」とも書いていて、これでは、まるで原典であるウルティマシリーズでは情報の過多に気づいていたが、蓄積のない日本ではそれに気づけなかったかのようです。

しかし、「ウルティマIII」と「夢幻の心臓II」の両方をプレイした人であれば、この説明は完全な間違いであると確信をもって言えると思います。夢幻の心臓シリーズでは「夢幻の心臓II」で迷宮を全て2Dにし、3Dダンジョンは完全に廃止しました。一方、ウルティマシリーズが3Dダンジョンを廃止したのはかなり後期の「ウルティマVI」からでした。

「夢幻の心臓」シリーズの問題点としてこの記事であげられている、3Dダンジョンのわずらわしさ、画面構成の複雑さ、戦闘のたびに切り替えればスピードが遅くてストレスがたまる、などの問題は、「夢幻の心臓II」では解消されています。

戦闘シーンではモンスターの姿がリアル指向の絵柄でマップ領域全体に大写しされ、ビジュアル栄えする画面にすらなっていたと思います。少なくとも表示されるモンスターの画像の大きさはドラゴンクエストより大きなものになっていました。

この記事の中で、「夢幻の心臓II」に対する指摘で妥当な部分をふくむのは、物理的に見えない部分を黒塗りにする視覚システムがRPGの初心者や低年齢層には向かない可能性があることくらいだろうと思います(記事の方ではもっと否定的な書き方になっていますが)。

ただし、これについても、当然のことですが「ウルティマI」や初代「夢幻の心臓」などはこの視覚システムを採用していません。ですから、単に「ドラゴンクエスト」が対象となるプレイヤー層やハードウェアの特性にあわせて昔の方法を採用しただけだと思います。プレイヤー層を考慮することはとても良いことですが、その考慮の対象が違うだけで、この部分でドラクエが何か画期的なことをしたわけではありません。

夢幻の心臓の初代とIIの混同

…と、ここまで指摘をしてきましたが、夢幻の心臓シリーズをとりあげているこの章の最大の問題は、初代「夢幻の心臓」と2作目の「夢幻の心臓II」との区別をあいまいにし、初代の方の問題点をあたかもシリーズ全体の問題であるかのように読者に誤読させている点にあると思います。

「夢幻の心臓シリーズは…覇権を取れなかった」と書くことによってその後シリーズ全体の話をするかのように見せかけつつ、その後の文章では、主語に「夢幻の心臓」と「夢幻の心臓シリーズ」の両方を混ぜたうえで、初代の問題点だけを書きつらねています。

あまりきつい言葉は使いたくないのですが、この章についてだけは、間違った記述があることも含めて、あまりにひどい不適切な内容と言わざるをえないと思います。加えて言うなら、もちろん当然のことではありますが、初代「夢幻の心臓」も、当時の他のRPGとくらべたら非常に画期的なゲームであったことに間違いはありません。

夢幻の心臓シリーズは、確かに初代「夢幻の心臓」では今の基準から見れば記事で指摘されているような問題はありましたし、モンスターの描画速度や序盤の難易度については当時の基準でも厳しかったかもしれません。しかし、その後発売された「夢幻の心臓II」でそのほとんどが解消され、3Dダンジョンを欲張ってつめ込んだりすることもなく、内容が豊富でありながらも比較的遊びやすいゲームになっていたと言えると思います。

「夢幻の心臓II」は1985年後半の新作RPG発売ラッシュの時期に作られています。この時期の国産ゲームについてきちんと触れていないという点は、先にも書いた逆境に関する話題と共通しているように思います。

ところで、この著者の方は「夢幻の心臓II」の規模について「初代ドラクエを凌ぐとの声もある」と伝聞調で記述しています。おそらく「夢幻の心臓II」をあまりプレイしていない(少なくともクリアはしていない)のでしょう。この部分はそれを前提にして読むべきなのだと思います。

※ドラクエが参考にできたゲームについて文章を書きました( 「ドラクエ開発時に参考にできた要素について 」 )

上のリンク先の補足資料の所でもふれていますが、当時の雑誌の「夢幻の心臓II」の紹介記事の例を見ると、無茶苦茶な設定がなくメモやマッピングをしっかりやれば慣れた人なら3〜5日くらいでクリアできるゲーム、あるいは、ユーザの意見を取り入れて高度なシナリオを持ちながら万人向けにしたゲーム、として紹介されていることが確認できます。当時の雑誌を見るかぎり、「夢幻の心臓」シリーズの2作目は先の記事とは全く逆の評価がなされていたと言って間違いないでしょう。

初代「夢幻の心臓」について

ちなみに初代「夢幻の心臓」のモンスターの描画速度について、発売当時のパソコンのPC-8801mkII上でカラー表示をすると確かに十数秒の時間がかかっていたようです(PS版のFF9に近い待ち時間ですね)。そのため、初代「夢幻の心臓」には色を塗らないモードがあり、これに切りかえると3〜4秒程度で表示できたようです。当時でも、このモードにすることで、それなりにではありますが十分に遊べていたわけですね。それが「夢幻の心臓II」のPC8801mkIISR版になると、カラーでも一瞬で表示されるようになります。

なお、上記はPC88版の話で、初代でもPC98版はそれほど気にならない速度で遊べていたようです。実物を直接見て確認したわけではないですが、瞬間画面表示が採用されていてロードの仕組みにも修正が入っていたとの情報がありました。店の画像なども何枚か追加されていたそうです。ここはぜひ Project EGG さんにPC98版の復刻を期待したいところです。

※あらためてPC88版の初代「夢幻の心臓」を詳しく調べてみました。詳細は「初代「夢幻の心臓」の紹介」を参照して欲しいのですが、発売された時代を考えると、軌道にのってからのゲームバランスはとても遊びやすく調整されていて、難易度の高い序盤もシステムが理解できればのりこえられるものになっていました。お金かせぎはそれなりに大変ですし、ある程度成長してからは探索中心になりますが、イベントもけっこう豊富でヒントもきちんと得られるようになっています。最大の問題は動作速度ですが、PC98版では解消されているようですし、初代「夢幻の心臓」も当時としては非常に画期的で完成度の高いゲームだったと言えると思います。


レベルデザイン的な考え方はファミコン用CRPGで初だったのか?

この記事の第2回目の記事(ドラクエで堀井雄二はいかに編集したか?−初代ドラクエの「1泊2日観光ツアー」革命)では、著者のいう「編集」について書かれています。この内容にもとても強い違和感がありますので、その違和感の原因を書いていこうと思います。

結論から先に述べると、1985年後半のRPG発売ラッシュに触れていないがために、ドラゴンクエストがいきなり起きた「革命」であるかのように見えてしまっているのだと思います。この時期の状況とそこに至る経緯を見れば、ドラゴンクエストは「革命」などではなく、順調な発展の先にあるものだということがわかると思います。

レベルデザイン

この記事では、最初にレベルデザインの話が出てきます。レベルデザインについて「ゲーム内のマップやエリアの構造、敵の配置や難易度などを設計すること」と説明したうえで、「ファミコン用CRPGでは、前例のない仕事だった」と評価しています。

ちなみに、「レベルデザイン」の英語の本来の意味は面やステージを設計することであって、本質的には難易度の調整などは含まない用語だそうです(結果として含むことになるとしても)。以前ここに書いた文章では少し勘違いと混同をしていたので、下記ではこれらを区別する形に修正してあります。

記事にもあるように、ドラゴンクエストの素晴らしい点のひとつにスタート時の導入部分のデザインがあり、チュートリアルを自然な形で行っているところは特筆すべき点だと自分も思います

一方、その後で、橋による難易度の区切りの仕組みが説明されています。しかし、この説明がなされる前に、2Dマップを持つCRPGには同じエリアに弱い敵と強い敵が入り混じっているゲームもあったことを引きあいにだしています。もし、冒頭の「前例のない仕事」の文章からの流れの中でこの部分を読んで、「当時の2Dマップを持つ国産RPGには、この記事がいうところのレベルデザイン的な考え方はなく、ドラゴンクエストでそれを初めて導入したんだ」と考える人がいたとしたら、それはこの記事を誤読していると考えていいと思います。

自分は当時のファミコンゲームについてはパソコンゲームほどくわしくは知らないのですが、自分が調べた範囲では、ドラゴンクエストより前に販売されたファミコン用RPGは1986年3月に発売された「ハイドライド・スペシャル」だけのようです。このゲームは1984年12月に発売された「ハイドライド」をベースにしながら、1985年10月に発売された「ハイドライドII」の要素を加えたゲームになっています。

もしRPGと銘打っているゲームがこれだけなら「ファミコン用CRPGでは前例がなかった」という文章は、ただ単に「「ハイドライド・スペシャル」にはなかった」と述べているだけにすぎません(もし他にもRPGが発売されているのだとしたらすいません)。

※その後いろいろ調べてみたところ、ハイドライド・スペシャルの他にもうひとつ「頭脳戦艦ガル」(dB-ソフト)というゲームがRPGと銘打って1985年12月に発売されていたようで、その他にもRPG風のゲーム(例えばボコスカウォーズなど)がいくつかファミコンでも出ていたようです。

チュートリアル的な導入

レベルデザインとして述べられている「マップやエリアの設計」について、ドラゴンクエストのチュートリアル的な導入部のデザインは、「ハイドライド・スペシャル」にはありません。「ハイドライドII」は街の中からスタートするものの、ていねいなチュートリアルなどはなく、放りっぱなしな点は同じです。

パズルゲームなどでは例えば「ウットイ」(コムパック,1984)のように、最初の数面がチュートリアル的になっているものはありました。しかし、当時のコンピュータRPGでは、オープニングで操作方法を説明したり、説明書に丁寧な手順を載せたりすることはあっても、ゲームの中でドラゴンクエストのようにていねいな導入をおこなうものは、自分も他に記憶がありません。ドラゴンクエストのこのデザインは本当に特筆すべき素晴らしい点だと思います。

ただし、「夢幻の心臓II」のスタート地点も別の意味でですが秀逸なデザインになっていると思います。「夢幻の心臓II」のPC88版のスタート地点は、南へ進むとすぐ海で行き止まり、北へ進むとすぐ山で行き止まり、西(北西)へしばらく進むとガーゴイルが待ち構えていて逃げなければ勝てずに負けてゲームオーバーになってスタート地点へ戻され、東(北東)へ進むとすぐ街と城が見つかる、という構造になっています。つまり、マップの構造と敵の配置によって、プレイヤーが自然に街と城の方向へと進むように誘導する形になっているのです。これがどこまで意図的だったかはわかりませんが、ゲームとしてかなり良くできたデザインだと言えるでしょう。

この仕組みについてもう少し詳しい解説を下記のページに書きました。

スタート地点の工夫

難易度の設計

一方、「敵の配置や難易度を設計」することの方はどうでしょうか?当時の2Dマップを持つ国産RPGでも当然、敵の配置を工夫することで、難易度の設計をおこなっていました

例えば、ドラクエの橋による区切りと類似した手法は「ポイボス」(1983.11)にもみられます。「ポイボス」の地上マップは川と橋によっていくつかの地区に分断されていて、細かいアルゴリズムまではわかりませんが、各地区ごとに出現する敵の数や強さに違いがあったようです。一方の地区から橋を渡って他方の地区へ移動すると強い敵が出現することになるようで、少なくともプレイヤー側の感覚としては「橋をこえると強い敵が出てくる」という印象をもつゲームになっていたようです。「ポイボス」は、2Dマップの地上に階層構造的な要素をもたせた、かなり初期のRPGのひとつと言えるかもしれません(ちなみにポイボスは2000年に入ってからファンによるWindows用リメイクが2度も作られています)。

他によくみる手法としては、道、草原、森、沼地、など、現在いる場所の種類で区別する手法がありました。 初代「夢幻の心臓」(1984.3)では「道」から一歩「平原」に出ると強敵があらわれます。「ハイドライド」では平原には最も弱い敵であるスライム、森の中には次に弱いコボルト、墓場にはゾンビ、迷宮にはローパー、砂漠にはサソリ、同じ平原であっても川をこえた先にある島では魔術師が出現する、というように、場所ごとに敵の強さが区切られていました。アクションRPGのハイドライドでは敵の姿も見えているため、ここから先はレベルを上げて挑むべきだということが、視覚的にもわかりやすいものになっていました。

これらの要素は探索や戦闘を楽しめるように工夫して配置されていたわけですから、これはレベルデザインの一種と言っていいでしょう。ハイドライドをベースにして作られたファミコン版RPGの「ハイドライド・スペシャル」でもこの仕組みは導入されていました。 つまり、先の記事がいう意味でのレベルデザイン的な考え方は、ドラゴンクエストの前に発売されたファミコンCRPGの「ハイドライド・スペシャル」や、その他の2Dマップを持つ国産パソコンRPGにもその前例が見られたということです。

ちなみに、当時一般的であった平原から一歩森へ進むと強い敵が出てくる、あるいはドラゴンクエストで採用された橋をこえると強い敵が出てくる、というようなモンスターの出現のさせ方は、その後、疑問と批判にさらされます。自由に移動できるはずのモンスターが、なぜ森から出てこないのか、橋を渡らないのか?この問題を解決しながら難易度のバランスをとったのが「夢幻の心臓II」で採用された方法なのだろうと思います。

「夢幻の心臓II」では戦闘から逃げるのに失敗してもペナルティを受けることがほとんどなく、繰り返せばほぼ無傷で戦闘から逃げることができました。また、敵はシンボルエンカウントですが、一度同じ種類の敵を倒さないかぎり(あるいは、こちらから攻撃をしかけないかぎりという条件かもしれません、正確なアルゴリズムはわかりませんが)その種類の敵は主人公をそれほど積極的には追って来ませんでした。この2つの仕組みによって、平面の2Dマップ上の同じエリアに強い敵と弱い敵を混在させつつ、プレイヤーが弱い敵から順に倒していけるような、難易度のコントロールを実現していました。

例えば、ゲーム開始直後に、いきなりドラゴンと出会うこともありますが、この段階ではほぼ確実に逃げることができ、主人公を執拗に追ってくることもありません(弱い敵はどんどん倒すことになるので執拗に追ってくるようになりますが)。主人公のレベルがかなりあがり、ドラゴンを倒すことができるようになると、それ以降はドラゴンが執拗に追ってくるようになります。

これに加えて、人間の世界、エルフの世界、魔神の世界、の3つのマップで出現するモンスターの強さや数を変える階層化もおこなっています。新しい世界へ行くと強い敵があらわれるわけで、ゲーム全体でみればこれもレベルデザインの一種と考えられると思います。1985年の段階ですでにここまでの難易度のコントロールが考えられていたわけです。

ちなみに「ラスボスである魔神はなぜいきなり人間の世界を襲ってこないのか?」その理由はマニュアルに掲載されたストーリーを読めばわかるようになっていました。簡単に言うと「過去にそれをして失敗をしているから」です。過去の失敗を繰り返さないために、魔神は自分の世界にとどまって、魔物に呪いをかけて人間を襲わせるという戦術をとっているのです。いかにもありそうな定番の疑問に対しても、きちんと説明ができるシナリオになっていたわけですね。

※ついでに言うと、このようなシステムだったので、敵からきちんと逃げることさえしていれば、ゲームの序盤にゲームオーバーになることはほとんどありませんでした。最初は弱い敵ですらプレイヤーをゆっくりとしか追って来ませんし、たとえ戦闘になっても逃げることがほぼ確実にできたので、敵と戦わなければ武器を買う前に広い範囲を探索することすら可能でした(もちろん最初のうちだけですが)。ゲームは森の中からスタートするので一瞬理不尽に見えるかもしれませんが、スタート地点周辺には敵が配置されてなくて、最初の森もとてもせまく、最初の街と城も見つけやすくなっているため、この開始方法で何も問題はなかったのです(PC88版は初期装備がないなど序盤の難易度を少し高める要素がいくつかありましたがX1版ではそれらも改善されています)。


それまでのCRPGでは主人公が死んだらどうなったのか?

ドラゴンクエストでは主人公が死ぬと所持金が半分になってスタート地点にもどされます。先の記事では、これを最後までプレイさせ続けるための配慮だと推測し、「ポートピア連続殺人事件」を例にしてゲームオーバーを排除する仕組みだとしています。章の見出しには「CRPGの革命」という表現すら使われています。

では、ドラゴンクエストが作られる前のRPGでは主人公が死んだらどうなったのでしょうか?1985年に海外で発売された「ウルティマIV」では、主人公が死ぬとロードブリティッシュ城の王座の間で復活する仕組みになっていました。おそらくドラクエの復活の仕組みはこれを参考にして作られたのだと思います(別々に思いついた可能性もゼロではないですが、少なくともほぼ同じ仕組みがすでに海外のRPGで採用されていました)。

セーブシステムの様々なタイプ

一方、国産のパソコンRPGではどうだったかというと、ゲームへの復帰の役割は、セーブとロードの機能が担っていました(もちろんウルティマIVにもセーブロードの仕組みはあります)。そして、その活用の仕方にはいくつかの種類がありました。

例えば「ハイドライド」(T&Eソフト)や「上海」(スタークラフト)などでは、冒険中にいつでもどこでもセーブができました。セーブスロットも複数あり、主人公が死んでしまっても、いくつかあるセーブデータの中から好きなデータを選んで再開できる仕組みになっていました。これは、危険なことを試す前にセーブをして、死んでしまったらロードしてやり直す、ということが簡単にできるシステムです。

一方、「リザード」(クリスタルソフト)では迷宮探索中はセーブできませんでしたが、街に戻ってきたときにセーブできるようになっていました。いつでもどこでもセーブできてしまっては緊張感がなくなるためにセーブの機能を制限したのでしょう。PC88版の「リザード」では上述のシステムと同様にセーブスロットが複数あり、好きなデータでやり直すこともできました(PC88版リザードのパッケージには、7階までの白地図もついていました(最上階は10階)。このことからも、初心者向けを志向していたことがわかりますね)。

「死」に重い意味を持たせるために、主人公が死んだらセーブデータを消すという仕組みを採用したゲームもありました。初代「夢幻の心臓」(クリスタルソフト)のPC88版や「ザ・スクリーマー」(マジカル・ズゥ)では、この仕組みによって、死と隣り合わせの殺伐とした雰囲気を演出していました。

「ザナドゥ」(日本ファルコム)や「夢幻の心臓II」(クリスタルソフト)ではオートセーブが採用されていました。例えば「夢幻の心臓II」では手動でいつでもセーブできるだけでなく、街や洞窟などに出入りするときに自動的にセーブされる仕組みになっていました。ゲームオーバーになっても直前に立ち寄った城や街などから再開できるため非常に便利でした。

ただし、セーブスロットが複数あるわけではなく、セーブデータがどんどん上書きされていく形式になっていました。この手法には、ピンチのときにセーブしてしまうと復帰が難しい(最悪の場合はクリア不可になる)という問題があるため、「夢幻の心臓II」の起動時のメニューにはセーブディスクをコピーする機能がそなわっていました。この機能でバックアップをとっておけば、あやまってセーブをしてしまっても、前の状態にもどってやり直すことができたわけです。もっとも、「夢幻の心臓II」はとてもよくできたゲームだったので、よっぽどの状態でセーブをしてしまったり、無理に先へ進んだうえに特定の条件が重なったりでもしないかぎり、バックアップしたデータに頼ることはほとんどありませんでした(必要なケースも3パターンほど思い当たるので安全な状態での定期的なバックアップは必要でしたが)。

※バックアップが必要なケースについて、自分が思い当たるもの以外にもいくつかあったようです。また、攻略情報を見ると想定より低いレベルで先へ進めてしまうため注意が必要です。今からプレイする場合にはセーブディスクのバックアップを定期的にとることを強くお勧めします。

ちなみに、アドベンチャーゲームまで視野を広げれば、主人公が死んでもすぐに復活する仕組みをセーブ・ロードの機能とは別に持っていたゲームも存在していました。「WILL」(スクエア)では、主人公が死んだ直後にキーをひとつ押すだけで死ぬ直前の状態にもどることができました。ただし、このゲームは絶対にクリアできないハマリの状態になることがある難しいゲームでした。主人公が死ぬことではなく、ハマリの状態になることが真のゲームオーバーと言ってもいいかもしれません。これは、規模が小さく何度も繰り返し試行錯誤することが前提だからこそできる仕組みでしょう。

様々な活用の仕方はあったわけですが、セーブデータを消すタイプの一部のゲームをのぞき、それまでのCRPGではセーブしたデータをロードすることで「死んでも復活させればいい」仕組みになっていました。

加えて言うなら、当時のアドベンチャーゲームでは複数スロットを持つセーブ・ロードの機能はあって当たり前であり、パソコンゲームユーザにとってはとても馴染みのある仕組みだったのです。

※当時のAVGのセーブ機能は途中で中断をするためだけにあるのではなく、セーブによって前の状態にもどせる保証をしたうえで様々な行動やパターンを試すような、試行錯誤をするためにも使われていました。そのため、フロッピーディスク版のAVGには5〜10箇所くらいセーブできるものが数多くありました。

当時のファミコンの限界

一方、ファミコンでは、このセーブ・ロードの機能を使うのは難しかったのでしょう。当時のファミコンユーザには、セーブ・ロードの仕組みを利用する経験はほとんどなかっただろうと思います。また、カートリッジにセーブ機能を組み込むことも容易ではなかったのではないかなと思います。

実際に、ドラゴンクエストでは、セーブ・ロードの機能は「復活の呪文」が担っていました。しかし、ご存知のように「復活の呪文」によるセーブ・ロードの機能は、とても手間がかかる面倒なものでした。「夢幻の心臓II」でいうなら、セーブディスクのバックアップに相当する(あるいはそれ以上に匹敵する)手間がかかる作業だったと思います。

「復活の呪文」によるセーブ・ロードが気軽にできないのであれば、別の復帰方法が必要になります。それで「ウルティマIV」の復活の仕組みを参考にして、いくらかのペナルティをはらって現状のまま復活させるという手法を採用したのだろうと思います。

「死んでも復活させればいい」という考え方そのものは、CRPGの革命などではなく、昔の国産CRPGにもセーブ・ロードの機能として普通に存在していたのです。しかし、ファミコンでは気軽にはそれができなかったため、別の方法、つまりウルティマIVの復活の方法を導入した、ということなのだと思います。

ちなみに、自分はドラゴンクエストの開発者のすばらしさのひとつは、既存のシステムをファミコン向けにとても巧みにアレンジした点にあると考えています。そのわかりやすい一例が「ポートピア連続殺人事件」の例です。パソコン版の「ポートピア連続殺人事件」では、間違った犯人を指名すると、ゲームオーバーになって、そこでゲームが終了していました(もともとはゲームオーバーの排除なんてしていなかったのです)。自分は当時このトラップにひっかかってあっけにとられてしまったわけですが、開発者のみなさんはおそらくそのことに気づいて配慮をしたのでしょう。移植されたファミコン版では、この部分がゲームオーバーを廃止する形に変更されています。

ドラクエ開発時に参考にできた要素について」のページにも復活の仕組みの情報を追加しました。

初代「夢幻の心臓」のセーブの仕組みについては「記録と再開のシステム」(初代「夢幻の心臓」の紹介)も参照ください。


それまでのCRPGのシナリオにコンパスはなかったのか?

例の記事では、復活の仕組みの話のあとにシナリオ面の話をしています。そこではドラゴンクエストのゴールへみちびくシナリオの流れが説明されています。では、当時のパソコンRPGにはプレイヤーをみちびく仕組みはなかったのでしょうか?もちろん、そんなことはありません

「夢幻の心臓II」では、例えばスタート地点のすぐそばにあって最初によることになる城の中で、「王女がアーケディア城に行ったまま帰ってきません、心配で、心配で」といった話を聞くことができます。最初の段階で王女が行方不明であることが示唆されます。

破壊された別の城へ行ってみると、扉が閉ざされた部屋の中に女性がとらわれていることがわかります。その城には強敵が守っている宝箱があり、その中に大切なアイテムが入っていることが視覚的にわかるようになっています。この宝箱の中に王女を助けるアイテムがあるに違いないと多くの人は考えるでしょう。そして、当面の目標がこの強敵を倒すことだと自然にわかる仕組みになっていました。

そして、その強敵を倒して王女を救出すると、それまで「私たちは王女の護衛のわずかな生き残りだ」などと話していた周囲のモブキャラたちのセリフが「勇者よ、魔神を倒すにはシルヴィア姫をサルア城にかえすことが必要なのだ」という内容に変化し、プレイヤーを次の行動へとみちびく仕組みにもなっていました(周囲のほぼ全員がこのセリフになる点は少し残念ではありますが)。

さらに、王女をサルア城へ無事につれて帰り、城内で修行をはじめた王女に会いにいくと、そのすぐそばに次元の入口が見つかります。その入口から先へ進むと、さらなる強敵が闊歩する魔神の世界へ行くことができます。そこでは溶岩にかこまれて簡単には行くことができない城を見ることができます。この時点ではまだゲームは中盤で、地上の敵にも太刀打ちできずに逃げ帰って来ることになるのですが、多くの人はこの城が敵の本拠地だと思うでしょう。つまり、王女を救ったあとに、自然な流れで最終目的地が示唆される仕組みにもなっていたわけです。

他にも町の人たちから、赤き塔に黒き石があること、エルフの城をたずねる必要があること、ある場所であるアイテムを使う必要があること、などの情報が直接的、あるいは間接的に示唆され、その情報を追っていくことによってゴールへとみちびかれるようなシナリオになっていました。

必ずしも1本道ではなく、たくさん情報がある中で、どこから攻略していくかはプレイヤーにある程度はゆだねられていましたが、「みちしるべ」は様々な手法できちんと示されていました。ついでに言うと、そうやってたどりついた最終決戦では、ラスボスを倒すと真の姿をあらわすなどのドラマチックな展開すら用意されていました(作者の富一成さんたちが、これらのたくさんのストーリー上のアイデアをどのへんから得たのか知りたいところですね)。

※演出を比較した文章を書きました(「夢幻の心臓IIからドラゴンクエストへ」)。

例の記事の著者は「1980年代前半までの多くのCRPGがコンパスも持たずに野垂れ死ぬ自由がある「放浪」だったとすれば」と書いていて、文字に色までつけてそれを強調しています。しかし、これを読んで「ドラゴンクエストが作られる前のCRPGのシナリオにはプレイヤーをみちびく仕組みが存在しなかった」と解釈してはいけません。

この著者は「全てのCRPG」とは書いていませんし、1980年代前半としか書いていません。例えば「夢幻の心臓II」のような1980年代中盤に発売されたゲームについては全くふれていないのです。

「夢幻の心臓II」には、その名も「シーのコンパス」というアイテムが存在します。そのままでは見つけることが難しい「さまよえる塔」を、このコンパスを使えば見つけることができました。もちろん、このコンパスを使う必要があるという情報は町の人たちとの会話の中で得られます。

初代ドラクエが「各地に案内板を用意してガイドブックも手渡すパックツアー」であったなら、1980年代前半の「放浪」と、ドラゴンクエストの「パックツアー」の間には、「夢幻の心臓II」のような「各地の案内板を見ながら行き先を自分で決めて旅することができる、選べるオリジナルツアー」のようなゲームがあったのです。

1980年代中盤には、CRPGはすでに終わりの見えない放浪の旅だけではなくなっていた、そう言って特に問題はないでしょう。…と、著者の表現にのっかって説明してみましたが、要するに、この時期には、ヒントをていねいに配置することで、ある程度の自由度はありながらもプレイヤーをクリアまでみちびくようにデザインされたCRPGがすでに存在していたのです。

パソコンのRPGはファミコンと比べれば対象年齢が高めなので、ヒントが少し難しいとか、少しわかりにくいということはあったかもしれません(自分も中学生のころに夢幻の心臓IIをプレイして一箇所だけ攻略記事のお世話になりました)。しかし、少なくとも夢幻の心臓IIではヒントの全くない謎解きは存在しなかったと言ってもいいと思います。

プレイヤーを丁寧に導く仕組みは「夢幻の心臓II」だけに限りませんでした。例えば同時期に発売された「地球戦士ライーザ」(エニックス)は、とても明確でシンプルなストーリーラインがありました。敵の戦艦が複数同時に出現し、倒していく順番がプレイヤーにゆだねられる展開などはありましたが、ストーリーの各時点でのゴールはとても明確に示されていました。ドラゴンクエストの功績は、それをさらに優しくして低年齢層やゲームをあまりやらないような人でも追えるように徹底的に配慮をした点にあると思います。

※当時のゲームの物語的な側面については下記の文章でも解説しています。

ストーリーを語る手法としてのRPGについて

初代「夢幻の心臓」で採用されていたプレイヤーを導く仕組み

初代「夢幻の心臓」について、あらためて調べてみたところ、イベントや謎解きについては初代の時点でプレイヤーを導く仕組みが導入されていました。

例えば、地上を探索すると見つかる砂漠の街で、魔術師に占いをしてもらうと、「ライオンの洞窟には獅子の紋章」など、その時点での所持品などの状況に応じた行動のヒントが得られるようになっていました。

また、街にある広場でも、有料ではありますが、例えば「北西に《ライオンの洞窟》がある」などのような、様々なヒントが得られます。

それだけではなく、地上で遭遇した相手との会話に成功したときには、一定の確率でではありますが、近くのイベントが発生する場所を、例えば「西に6、南に9、はなれた所に「ライオンの洞窟」がある」のような形で教えてくれる仕組みまで採用されていました。

夢幻の心臓シリーズは、すでに初代の時点で、かなり豊富にヒントを提示してくれるRPGのひとつだったのです。

初代「夢幻の心臓」のヒントの出し方については、下記でも詳細に説明していますので、興味があれば読んでみてください。

プレイヤーを導く仕組み初代「夢幻の心臓」の紹介


「オホーツクに消ゆ」の何が新しかったのか?

コマンド選択方式、つまり、画面上にならんだコマンドから単語を選ぶというアイデアが初めて採用されたグラフィックアドベンチャーゲームは、「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」(システムソフト,1984.3)だと言われています(名前が長いので、以後、このゲームを「ミコアケ」と表記します。※後述しますがさらに先例がある可能性があります)。

このゲームでは、コマンドを入力するときに、全ての使える動詞の一覧(「ウゴカス」「シラベル」など)が表のように表示されていました。そこで、カーソルを上下左右に動かして動詞をひとつ選択し、決定ボタンを押すと、次に名詞の一覧(「カギ」「カバン」「ライオン」など)が表示される仕組みになっていました。ここでさらに動詞と同じようにカーソルで名詞を選ぶことによって、「動詞+名詞」の入力ができました。

ミコアケとオホーツクに消ゆの選択方式の違い

この「ミコアケ」のコマンド選択方式と「オホーツクに消ゆ」(ログインソフト,1984.12)のそれとでは何が違ったのでしょうか?一つ目の違いは選択肢の扱いでした。

動詞については「ミコアケ」では東西南北への移動用も含めると24種類あり、基本的には全てのシーンで全ての動詞が選択できる形になっていました。 それに対して「オホーツクに消ゆ」ではシステム関係の機能を含めても動詞は14種類程度にしぼられており、しかも場所によって表示される選択肢が変化する(「みろ」や「とれ」などの選択肢がなくなったり、終盤では「たたかう」「にげる」など今までとは全く別の選択肢が表示されたりする)仕組みになっていました。

名詞の選択肢については、「ミコアケ」ではその場に存在しているものと自分の持ち物が全て表示されるというルールにしたがっていました。選択肢の数は多いときでも10個程度でしたが、動詞の数も含めると入力できる組み合わせはかなり多く、しかも選んだ結果何も起きない場合がかなりありました。 一方、「オホーツクに消ゆ」の名詞の選択肢に厳密なルールは特になく、持ち物の場合もあれば、質問内容の場合もあれば、探す人の名前の場合もあり、所持品の中にあるのに選択肢が表示されないことも普通にありました。

つまり、「ミコアケ」が一定のルールにしたがって選択肢を表示しているのに対し、「オホーツクに消ゆ」は、ストーリーの都合に合わせて表示する選択肢そのものを変化させている点に大きな違いがあったのです。これにより選択肢の数をかなり減らすことができたため、全ての選択肢の組み合わせに対して何らかの反応(ストーリー展開にとって無駄なものやさびしい反応のものが含まれているにせよ)を起こすことも可能になりました。

二つ目の違いは選択のしかたです。「ミコアケ」では単語が2次元の表の形で配置されており、カーソルを上下左右に動かして選ぶ必要がありました。この方法は、キーボードで単語をタイプする方法とくらべればかなり簡単ですし、ジョイスティックだけで操作できる点や、「言葉さがし」をする必要がないという点でも画期的でした。しかし、選択肢が多かったこともあり、それなりにわずらわしく感じる選択方法でもありました。

それに対して「オホーツクに消ゆ」では、各選択肢を0〜9までの数字に割り当てていて、数字のキーをひとつ押すだけで単語が選択できました。この方法によって、入力作業の手間が「ミコアケ」よりも格段に下がっていたのです。この数字で入力する方法は「信長の野望」(光栄)などのシミュレーションゲームでよく使われていました。それをグラフィックアドベンチャーゲームで採用したのです。

「オホーツクに消ゆ」が画期的だったのは、「言葉探し」をなくしたことではありません。またコマンド選択方式を最初に採用したことでもありませんでした。これらは「ミコアケ」がすでに達成していたのです。

「オホーツクに消ゆ」が実現したのは、名詞と動詞を分けて入力するタイプのグラフィックアドベンチャーゲームにおいて、ストーリーの都合に応じて選択肢そのものを変えてしまう手法によって、選択肢の数を減らすとともに、ほぼ全ての選択に対して別々の反応を返すゲームを実現したこと、それから、カーソルを上下左右に動かして選択する方式よりもさらに簡便な1文字の数字を直接入力する方式を採用したこと、この2つを組み合わせたことにありました。

言葉探しの排除について

ちなみに、勘違いしている人も多いのですが、1984年12月に発売された「オホーツクに消ゆ」のPC88版では、「言葉探し」を完全にはなくしていませんでした。自分はファミコン版がどうなっていたかはよく知りませんが、PC88版ではゲームの途中にキーボードを使って単語(探す人の名前)を推理して入力する部分が含まれていました。

なお、その入力すべき名前は別々のシーンで出てくる文字列をつなげることで得られるのですが、その一方がとても気づきにくく、もう一方も誤解を与えやすい画像とともに表示されるため、この言葉探しの難易度は非常に高いものになっています。

この仕組みが導入されていたので、(あの有名かつ理不尽なハマリの仕組みが仮になかったとしても)項目を選択していくだけではクリアできないゲームになっていました。 当時のパソコンゲームは、プレイヤーの年齢層が高めなこともあって、ある程度難易度の高いゲームが望まれていたと言えるのかもしれません。

※その後調べたところ、ファミコン版「オホーツクに消ゆ」では「言葉探し」をなくすかわりに「3D迷路」を追加していたようです。ドラクエも経験値かせぎは大変でしたし、ファミコンでもまだ簡単にクリアできるゲームは出しにくい時代だったのかもしれません。

さらに加えるなら、実は、国産グラフィックアドベンチャーゲームとして最初期に作られた「ミステリーハウス」(マイクロキャビン, 1982)も、「オホーツクに消ゆ」と同様に、「言葉探し」が必要な単語はひとつだけでした。ミステリーハウスでは、ゲーム起動時に使える単語のリストが表示され、それを紙に書き写したりプリンタで印刷したりできるようになっていました。このリストには秘密のコマンドとして公開されていない名詞がひとつだけありましたが、それ以外のゲーム内で使える全ての動詞と名詞はそこに載っていたのです。

MZ-80B用テープ版「ミステリーハウス」を詳細に確認したところ、秘密のコマンドとされていた名詞は、その入力すべき単語の文字が、それを最初に見つけたときに画面上に強調して表示されていました。そして、起動時に表示される単語とその単語だけで最後までクリアできるようになっていました。実はこのゲームの最大のトリックは「名詞を入力せずに動かせるものがひとつだけある」ことで、入力できる単語はすべてプレイヤーに伝えられていたのです。つまり、実質的には、MZ-80B用テープ版「ミステリーハウス」は「言葉探し」が不要なアドベンチャーゲームだったのです。(当時、自分は小学生でクリアをしていて、言葉探しが不要だった気はしていたのですが、今回、それがようやく確認できました)

※PC8801版の「ミステリーハウス」も動画で確認してみたところ、少し複雑にはなっているものの、MZ-80B版と同様に使う単語が全てプレイヤーに提示されていました。最初に表示される単語リストには「秘密の道具」として伏せられた単語がひとつだけありますが見つけたときにその英語のスペルが表示されます。最大のトリックもMZ-80B版と同じで言葉探しとは無関係です。暗証番号を入力するシーンはありますが、その番号も入手できる場所で画面上にそのまま表示されます。PC8801版「ミステリーハウス」も「言葉探し」は不要だったわけです。ただし、PC6001版の動画では表示されていない単語を入力していたので機種による違いはあるようです。

なお、「ミステリーハウス」や後述する「スパイ00.7」に関する情報は、「国産RPGクロニクル」という書籍にもとづく記事に対して書いた「アドベンチャーゲームとRPGへの展開」の文章内でも解説しています。

※他の例では(難易度はかなり高いようですが)例えば「聖なる剣」(クリスタルソフト,1983)なども「言葉探し」が不要なゲームでした。「聖なる剣」では、「ヒント」と入力すると、ゲーム内で使えるすべての単語のリストが表示されます。また、最初の数文字を入力してリターンキーを押すと、このリストの中から一致するものを探して残りの文字を自動的に補完する機能もついていました。もちろんこれらの使い方はゲーム開始時の説明で表示されます。コマンド入力式のゲームの中にも「言葉探しが不要なゲーム」は普通に存在していたわけですね。

命令をワンキーで入力でき、言葉探しが不要なアドベンチャーゲームも存在していました。1984年1月にMZ-80B(2000/2200)という機種のパソコン用に発売された「モンスターハウス」(日本ファルコム)では、ゲーム起動時にコマンドリストが表示されるだけでなく、OPEN(開ける)なら「O」、USE(使う)なら「U」、DOOR(ドア)なら「D」、KEY(鍵)なら「K」のように、受けつける全ての単語にひとつのキーが割り当てられていました。使える単語は全部で20個程度で、動詞と名詞に相当するキーを順番に押すだけで(Enterキーを押す必要もなく)入力ができました。例えば、「O」のキーを押してから「D」のキーを押すという簡単な操作だけでドアを開けることができたのです。

ひとつ補足をしておくと、言葉探しのあるゲームで行きづまったからといって、必ずクリアできなくなるわけでもありませんでした。当時は「ヒント券」という形で、行きづまったときに解き方を質問する権利がついているゲームがかなり多くありました。枚数に制限はありますが、この券と一緒に質問の手紙をメーカーへ送ると、解き方のヒント(または直接の解法)が郵送で届くというシステムになっていました。自分もいくつかのゲームはヒント券を使ってクリアしています。こういった周辺のシステムも用いてゲームが構成されていたわけです。

さらに付け加えるなら、当時の雑誌でも様々なヒントを得ることができました。 マイコンBASICマガジンには、クリアに困ってハガキを送った人たちへヒントを提供する レスキューコーナーがあって、読者がヒントを出す側へとまわるレスキュー隊などの 募集もされていました。 また、山下章さんの名著「チャレンジ!!パソコン・アドベンチャーゲーム」には 言葉探しが必要な難解な動詞をふくむコマンドリストもついていました (しかも隠されて掲載されているという、アドベンチャーゲーム好きな読者の 遊び心をくすぐるしかけにもなっていました)。

こういったヒント券や雑誌の文化なども通してアドベンチャーゲームが楽しまれていたのです。

詳細を「雑誌や書籍の文化」(昔のパソコンゲームの周辺文化)のページに書いたので(RPGの事例ですが「ヒントの請求」についても書いてあります)、よかったらリンク先を参照してください。

その他のコマンド選択式の様々な事例

また、1984年11月に発売された「コリドール」(光栄)でもコマンド選択式は採用されていました。ただし、このゲームは、この時期にはめずらしいテキストアドベンチャーゲームで、たまに画像がさし絵のように表示されることはありましたが、基本的にはその場の状況が文章で表示されるゲームでした。

このゲームでは、いわゆるゲームブックのように、選択肢が文章で表示されていました。例えば「小人の美女が座っていて、何かを話しかけてくる」というシーンでは、「1=小人語がわからないので意味がわかるまで待つ」「2=共通語で話しかける」「3=剣を抜いて切りかける」「4=見なかったことにして立ち去る」のような選択肢が表示され、「オホーツクに消ゆ」と同様に数字を入力することで行動を選択できました(注:実際の表示はカタカナ表記です)。

1984年8月に発売された「英雄伝説サーガ」(マイクロキャビン)は、場所の状況に応じて選択肢が変化するタイプのコマンド選択式を採用しており、森での移動時、敵との遭遇時、会話している時などのそれぞれの状況に応じて異なる選択肢を表示していました。選択肢の数は最大でも8個程度と少なく、動詞と名詞も分かれておらず、例えば「Hit」,「Ask」,「Look toward the left」,「Go forward」などがメニューのように縦にならんでいて、どれかひとつを選ぶとその行動をするという形式でした。

ちなみに、英雄伝説サーガの画面は、左上にシーンの画像、右上に選択できるコマンドの一覧、下にメッセージの表示領域、を配置するレイアウトになっていました。これは「オホーツクに消ゆ」などの多くのコマンド選択式アドベンチャーゲームでも採用されることになったレイアウトですね。

ゲームの大半が迷路だったり、一部にキーボード入力が必要な箇所があったりはしましたが、エンディングが複数用意されている点や原画を取り込んだ美しい画像が使われている点、コミックスのコマを見ているかのような独特なアングルやアップや引きの画像を効果的に使った映像表現を駆使している点(広告ではロール・ベンチャー・コミックスと宣伝されていた)など、魅力的な要素をもったアドベンチャーゲームでした。

※英雄伝説サーガの映像表現については「演出の工夫による動きの表現」でもふれています。

システムソフトやマイクロキャビンや光栄など、当時のPCゲームの大手メーカーによって次々とコマンド選択式アドベンチャーゲームが発売されていく中で「オホーツクに消ゆ」も発売されているのです。こういったさまざまな試みや蓄積の上に今のゲームがあると言っていいでしょう。

念のために書いておきますが、「オホーツクに消ゆ」がこれらをマネたとかパクったとか言っているわけではありません。「言葉探し」をやめてコマンド選択式にしようと考えた人たちが、「オホーツクに消ゆ」の開発者たちの前にもたくさんいて、実際にそういうゲームをすでに作って発売していたということが、ここの趣旨です。そこは間違えないようにしていただければと思います。

それから前述した点について、FM-7用の「トリダンタル」(パックソフトニカ,1983)というゲームもコマンド選択式だったようです。プレイしたことがないので詳細はわからないのですが、システム的にはモンスターハウスのようなワンキー入力式ですが、ゲームの最初だけでなくゲーム中にもコマンド一覧が表示されていたようです。また、「熱海温泉アドベンチャー」(ベーシックシステム,1983)もコリドールに近い形式で数字のかわりにアルファベット1文字で入力するタイプのコマンド選択式が採用されていたようです。雑誌掲載では「スパイ00.7」(月刊マイコン1983.4, p.353-356)が場面ごとに質問文と数字つきの選択肢を表示して数字を選んで先へ進む方式だったようです(誌面を確認したところ、3択から正解を選ぶと先へ進める乱数要素をふくむシンプルなゲームでした)。定義によっては、ミコアケについて「初めて」と書いた部分は訂正が必要かもしれません。

いずれにせよ、「オホーツクに消ゆ」はコマンド選択式の事例がすでにある中で作られています。

話をドラクエの入力システムの話題に戻すなら、カーソル移動式メニューによるコマンド選択方式は、AVGでは「ミコアケ」ですでに採用されていて、RPGでもファミコン版「ポートピア連続殺人事件」と同時期に発売された「ハイドライドII」や「夢幻の心臓II」ですでに採用されていました。

PC版「オホーツクに消ゆ」の半年以上前に発売された初代「夢幻の心臓」も、コマンドの実行はキーボードショートカットだけでなく矢印キーとスペースキーでの選択が可能になっていました(移動とは別系統になっていましたが)。ですから、この話題で「オホーツクに消ゆ」が出る幕はなく、単に「ドラクエでは、当時のPCRPGで採用されていたカーソル移動式メニューによるコマンド選択方式を採用していた」と説明するだけで十分でしょう。

なお、当時のRPGの操作体系については「操作体系」(ドラクエ開発時に参考にできた要素について)のページにまとめてあります。

オホーツクに消ゆの紹介のしかたについて

それから、オホーツクに消ゆについて「その後主流となるコマンド選択式を最初に採用した」と紹介するのは、間違ってはいないですが誤解をまねくので、やめたほうがいいと個人的には思っています。この説明は「コマンド選択式はすでにあったけれども、上で述べたようなその後主流となる方法をコマンド選択式で採用したのは最初だった」という意味であれば正しいです。 しかし、プロのライターや研究者ですら、「コマンド選択式を最初に採用した」とか「言葉探しを最初になくした」のように誤解をしてしまっているわけですから、別の表現を使ったほうが適切でしょう。少なくとも専門家の方々には、もっと誤解をあたえないような表現を検討して欲しいと思います。

ついでに書くと、「オホーツクに消ゆ」で採用された動詞と名詞を分けて選択させる方法は、確かに一度は主流となるのですが、最終的には「コリドール」で採用された方法(動詞と名詞を分けずに文章で4〜5個程度の選択肢を示す方法)の方が主流になっていきます。また、ゲーム機では、数字入力ではなく「ミコアケ」や「英雄伝説サーガ」などで採用されたカーソル移動方式が主流です(パッケージによると「オホーツクに消ゆ」もPC6001版ではジョイスティックが使えたようですが)。ですから、「現在主流となっているコマンド選択式を最初に採用した」といった説明もあまり適切とは言えないだろうと思います。

「ポリスノーツ」(1994.7)などで採用されている画面をクリックするとその場に応じたメニューウィンドウが開く方式(OSなどでよく使われている方式)は、ゲームではかなり初期に「サイオブレード」(1988.11)で実現されていますが、開発元のT&Eソフトは「惑星メフィウス」(1983.7)で今でいうポイントクリック式に近い名詞の入力方式を採用し、「ハイドライドII」(1985.11)ではウィンドウシステムを採用しています。そこからの発展系とみなすと、歴史的に「オホーツクに消ゆ」とは別系統の入力方式ともいえます。間接的な影響はあるのかもしれませんが、現在のコマンド選択式が必ずしも「オホーツクに消ゆ」だけからきているわけではないことも、わかってもらえたらと思います。

なお、「惑星メフィウス」で採用されていた画面を指し示す方式は、キーボードから名詞を打ち込む必要がないという点では便利でしたが、特定の場所を指定しないと先へ進めなくすることでゲームの難易度を上げるという使われ方もされていました。この方式は、オホーツクに消ゆの開発者である堀井雄二さんが関わって作成された「軽井沢誘拐案内」(1985.5)やファミコン版「ポートピア連続殺人事件」(1985.11)でも採用されていますが、「惑星メフィウス」と同様に難易度を上げる使われ方がされていました。

もちろん、そのような使い方をせずに、単語入力の補助に限定していたゲームもありました。例えば「ウイングマン」(1984.11)はコマンド入力式のゲームでしたが、名詞を入力せずにリターンキーを押すと、画面上に指が表示され、それを方向キーで動かして場所を指定することで、画面に映っている対象の名詞を入力することができました。よく使う動詞はファンクションキーで入力できたため、コマンド入力式ではありましたが、かなり遊びやすいゲームになっていました。

それから、オホーツクに消ゆを、「誰でも必ずクリアできるように作られたゲーム」であるかのように紹介する人もたまに見ますが、PC88版を今プレイして、外部からのヒントなしにクリアできる人はかなり少数だと思います。あの有名なハマりの部分だけでなく、どこがフラグか全くわからずに進行する部分や、名前を推理してキーボードから入力する部分もあります。序盤がサクサク進むからといってメモを取らないと、外部からの情報なしにはほぼクリアが不可能になります。

むしろ「コリドール」などのほうが、何度もゲームオーバーになったりして苦戦するとは思いますが、今からでもクリアできる人の数は多いだろうと思います(難しいぶんいろいろメモをとることになるとは思いますが)。

※あと、ここの話はあくまでも日本国内での事例にかぎった話なので注意してください。海外の事例を調べると「Enchanted Scepters」(1984)というゲームが、プルダウンメニュー形式のメニューによる動作の選択と画面クリックによる対象の指定を組み合わせたかなり初期のゲームとして紹介されているようです。それ以前にあったかどうかまでは調べていません。

AVGのコマンド選択方式については「コマンド選択式AVGに対する誤解について」(ドラクエ開発時に参考にできた要素について)のページにも情報を追加してあります。興味があればご参照ください。

関連して話題にあがるAVGと物語的な側面について

関連した話として、ポートピア連続殺人事件がコンピューター側の応答文を擬人化した先駆的なゲームだったという話も出ているようです。しかし、それ以前にもシミュレーションゲームなどでは、顔グラフィックと会話型メッセージで登場人物たちと対話をしながらゲームが進行する「オールキャストスタートレック」(コムパック,FM-7/8,1982.1)などのゲームが存在していました(動画を探して見てもらえればわかると思いますが、現在の顔グラフィックつきの対話型システムとほぼ同じものが、この時期にすでに採用されていました。基本的にはメッセージも全てキャラのセリフの形で表示されています。いわゆる「キャラゲー」ってこんな昔からあったんですよね)。

また、ENIXの第1回プログラムコンテスト入選作品として発売された「星子のアドベンチャー」(1983.2)も無線機から聞こえるSEIKOのナビゲーションにそってゲームが進行します。ですから、この点でポートピアだけが特別だったとはいえないと思います。なお、この話の発端だと思われる記事を確認したところ、アドベンチャーゲームに限定した話で海外の事例などもきちんと紹介されていました。一部を抜き出して拡大解釈したりしないように注意してもらえればと思います。

※例えば海外AVGの「The Quest」(Penguin Software, 1983)は、同行人とともにゲームが進行し、その同行人が勝手に行動をするシーンなども存在しています。

ポートピア連続殺人事件が物語を描いた最初のアドベンチャーゲームだったという人もいるようですが、「幻魔大戦」(ポニカ、1983.3)なども同名のアニメ映画の内容をたどる形で物語を描いたAVGになっていました。当時主流だった探索型AVGとは全く異なり、質問に対してYes/Noや数値の入力などをすることでストーリーが進行する形で、ポートピアよりもさらに物語を描くことに特化したつくりになっていました。いわゆる紙芝居のような形式のAVGです。原作を知らないと内容がわかりにくいとか、すぐゲームオーバーになるとか、かなり無茶な質問があるなど、様々な問題点が数多く指摘されているゲームではあるのですが、そうであっても「物語を描いたAVG」と言えることに間違いはないはずです。過去のゲームに敬意をはらうことを忘れないでいただきたいところです。

これと同様に映画が原作のゲームとして発売された「ハッピーブッシュマン」(ポニカ、1983.3)では、それまで一般的だった4方向への移動を、「進む」と「戻る」の2つに限定し、直線的にイベントを配置することで、物語が進行する手法が採用されていました。自分もプレイ動画を見るまで知らなかったのですが、先へ進むのにしたがって、コーラビンをサルに盗まれたり、警官につかまって裁判にかけられたり、女教師を助けたり、といったイベントが順番に起こる形になっています。駄作あつかいされてしまいがちなゲームですが、これも物語を描くことに特化したつくりの一例だろうと思います。

なお、ポートピア連続殺人事件の場所を指定して移動する方式と同じものは、それ以前のAVGではその場に見えている場所(例えば洞窟など)へ行くときに使う特殊な移動として存在していました。例えば「ウィザード&プリンセス」(1980,On-Line Systems)では虹の橋を越えるのに、東西南北ではなく「GO RAINBOW」という入力が使われていました。ポートピアはこの特殊な移動だけでゲームを構成した形になっているとも言えます。

移動の途中の様子をはぶいた場面転換という点で言えば、例えば上であげた「幻魔大戦」では「ルナのところへいくか?(Y/N)」の質問にYesと答えたときなどに場面転換がおこります。「ハッピーブッシュマン」の「進む」「戻る」は基本的には前後への移動を意味していますが、警官につかまった後「ススム」と入力すると、その場から前へ移動するのではなく、裁判官の前で無罪を言い渡されるシーンへと場面転換します。映画やアニメをAVG化する中で様々な工夫がなされていたわけですね。

上にあげたいくつかのゲームが電ファミの下記の記事でとりあげられていました。

記事の後半で、ドラクエの「はい/いいえ」のような、結局ひとつしか意味のない選択肢の事例として「英雄伝説サーガ」と「幻魔大戦」が紹介されています。「幻魔大戦」が当時主流の探索型AVGとは異なっていた点についてもふれられていて、「オホーツクに消ゆ」と同時期に様々なコマンド選択式AVGがあったこともわかる説明がなされています(ミコアケとの前後関係があいまいに書かれているのが少し残念ですが)。素晴らしい記事なのでぜひ読んでみてください。

ちなみに結局ひとつしか意味のない選択肢で面白かった事例に「新竹取物語」(1984.10)があります。ゲーム開始時に女性か男性か聞かれるのですが、女性と答えると「男になってもらいます」と言われ、暗示で男にさせられてしまいます。なかなか面白い演出ですね。


ハイドライドIIとマルチウインドウ

RPGブームで盛り上がった1985年後半にパソコンゲームで遊んでいた人なら、マルチウインドウ風のシステムと聞くと「ハイドライドII」を思い浮かべる人も多いでしょう。アクションRPG「ハイドライド」の2作目のゲームです。

ハイドライドIIのインタフェースの特徴

初代「ハイドライド」では、アイテムの入手方法は、宝箱に接触する、特定の敵を倒す、などが中心で、店での売買などは存在しませんでした。また、全てのアイテムは手に入れた時点で効果が発揮されました。例えばランプを手に入れれば地下が明るくなり、剣を手に入れればその時点で攻撃力があがり、復活の薬は所持していれば1度だけよみがえり、宝箱に接触したときに鍵を持っていればアイテムが手に入りました。そのため、ゲーム画面の下に所持アイテムを表示するだけで充分に事が足りていました。

その続編の「ハイドライドII」は、それまでアクション要素のないRPGでは一般的だった数々の要素をアクションRPGに取り入れたゲームでした。アイテムの入手方法に店での売買が加わり、そのアイテムも持っているだけで効果を発揮するものから、「使う」ものになりました。例えば初代ハイドライドではランプは持っているだけで地下が明るくなりましたが、IIではつけたり消したりできるようになりました。武器は何種類かある中から選んで装備できるようになり、一部の不要なアイテムは捨てることもできました。体力や経験値などの他に、装備によって変化する攻撃力、防御力、魔法力、などの新たなパラメータも追加されました。初代ハイドライドでは会話の要素は一切ありませんでしたが、IIからは平原を歩いている村人に話を聞くこともできるようになりました。

初代「ハイドライド」のプレイの感覚を残したまま、これらの要素を取り入れるための方法として、「ハイドライドII」では、マルチウインドウ風のシステムが導入されました。ハイドライドIIは、アクションゲームとして遊んでいるときのプレイ感覚は初代とほぼ同じなのですが、アイテムや魔法を使ったり攻撃力などのパラメータを確認したいときなどにメニューを呼び出すと、そのときのプレイ画面が残ったまま、それに重なる形でメニューが開く形になっていました。

また、メニューの項目の中から「ITEM DISPLAY(道具表示)」を選ぶと、位置は変化するものの「ITEM DISPLAY(道具表示)」が窓のタイトルになったサブメニューが開く方式が採用されていて、今どの項目を選んでいるのかが一目でわかるようになっていました。これらのメニューの背後にはそのときのプレイ画面の様子が残されていたので、どのような状況でメニューを呼び出したのかを把握しながら、項目の選択を行うことができました。

アイテムの項目には剣の画像や鍵の画像のようなアイコンが表示され、視覚的にもとてもわかりやすいものになっていました。2Dマップの画面上にメニューを重ねるというマルチウィンドウの活用方法は、今見てもとても優れたものだろうと思います(…と、ベタ褒めしてますが、この段落はもとの記事に対応する形で少し誇張ぎみに書いています)。

また、「ハイドライドII」では「TALK」モードという村人から情報を得る仕組みが追加されました。このモードで村人と接触すると、その村人のキャラクタが左端に表示され、その右側には、発話の引用符である「かぎかっこ」で囲まれた形でセリフが表示されたウインドウが開きます。この表現によって、あたかもそこにいるキャラクタがしゃべっているかのような演出がなされていました。

初代「ハイドライド」では、主人公のパラメータはLIFE(体力)、STR(腕力)、EXP(経験値)の3つだけだったので、それらは画面の右側にメーターの形で表示されていました。これを踏襲して「ハイドライドII」でも、LIFE、STR、MAGIC(魔力)、FORTH(精神)、EXP、の5つのパラメータがつねに画面上に表示されていました。瞬時の判断が要求されるアクションRPGでは、特に体力と魔力はプレイ中に常に把握しておく必要があったのでしょう。また、単調な経験値かせぎを強いるRPGでは、レベルアップの目安となる経験値や強さを実感できる腕力の表示も、プレイの動機づけとして重要だったのだろうと思います。パソコンのディスプレイの縦横比はブラウン管と比べると横方向に若干長く、これらのパラメータを表示しても広いフィールド画面が表示できていました

ドラクエのマルチウインドウと会話の表現

「ハイドライドII」のマルチウインドウ風のシステムを理解してから、ファミコン版「ドラゴンクエスト」を見ると、とてもすごいと思わずにはいられないと思います。PC88のようなパソコンとファミコンとではスペックに大きな差があるにもかかわらず、「ハイドライドII」のこのシステムのほとんどの機能をファミコンで実現できているのです。

アイテムのアイコン表示こそありませんが、プレイ画面の上に重ねてメニューが表示され、そこで「どうぐ」などを選ぶとサブメニューを開くこともできています。パソコン版でもFM-7版などではショップなどでメニューが開かれるときには背景のプレイ画面が消えていたようなので、技術力の高さには本当に驚かされます。

同様に村人との会話シーンでもウインドウシステムが活用されています。ただし、「ハイドライドII」で発話対象のキャラクタが表示されていた場所に「*」の記号が表示されている点が異なっていました。 ドラゴンクエストではプレイヤーが常に中央に表示されていて対話相手のキャラクタも中央付近に見えているため、ウインドウを中央からずらすことによって、この違いがあっても、十分に「このキャラクターが話している」という雰囲気が再現できていました。

ちなみに、この他に、引用符の閉じかっこに相当するかぎかっこの記号( 」 )が表示されていない点と、文字がひとつひとつゆっくり表示されていく演出がなされている点、それから文字がスクロールされる点が「ハイドライドII」とは異なっているようです。

なお、このウインドウシステムを漫画のフキダシになぞらえて話題にすることもあるようです。一般に、フキダシでは、でっぱりで発話者を示したり、大きさや位置を発話の量などに応じて変えたりしますが、そのようなフキダシによる表現を使ったRPGとしては「タイムエンパイア」(1985.10)や「リグラス」(1986.1)が思い当たります。 一方、ドラクエのウインドウにはこれらの要素はなく、セリフの文章の前には『*「・・・』という発話を示す記号( 「 )が表示されていて、エンディングでは同じウインドウの中に王様のセリフとナレーションと主人公のセリフを混ぜて表示したりもしています。

フキダシのようだと感じた人もいるとは思いますが、普通のメッセージウインドウと同等のものであって、フキダシを想起させるような何か特別な機能があったわけでも特別な使われ方がされていたわけでもないと思います。

なお、ハイドライドIIの会話システムについてはゲーム語りの基礎教養の第3回の記事に関連して書いた下記の文章でもARPGでNPCとの会話を導入した例としてとりあげています。

パラメータのウインドウ表示

ドラゴンクエストにはもうひとつ工夫があります。「ハイドライドII」では主人公の大きさを1と考えると、表示されるフィールドは15×11程度の広さでした。一方、ファミコンはテレビにつなげて遊ぶものでしたが、ブラウン管テレビはディスプレイよりも少し縦長なうえ、オーバースキャンによって元の映像の周囲10%程度が表示されなくなる可能性がありました。そのため、表示されるフィールドをせばめないかぎり、ハイドライドIIのようにパラメータを右側に表示することはできませんでした。同じ方式を採用したファミコン版「ハイドライド・スペシャル」のフィールドが11×11程度になっていたことからもそれはわかると思います。

ドラゴンクエストでは、体力などの重要なパラメータをウインドウ表示するという発想で、ハイドライドIIと同程度以上の15×13程度の広さのフィールド画面を表示させつつ、パラメータの確認を可能にすることに成功しています。これもとても素晴らしいアイデアでした。

ただし、自分はあまり詳しくないので細かいことは書きませんが、ドラクエがこの方式(マップを画面いっぱいに表示し、スクロール時にはステータス表示を消し、止まっているときにだけ表示する方式)を採用した原因としては、ファミコンのハードウエアが持つスクロール機能の制限と1985年当時の技術的な限界による可能性(当時のファミコンの実装技術では、パソコンRPGのようにしたくても、ハードウエアで縦横4方向のスクロールをさせながら、移動しない黒地のパラメータ表示部を作ることができなかった可能性)の方が大きいとも考えています。

毒の沼みたいな、移動中にHPが減るギミックがあるなら、HPを見せたまま移動できたほうが圧倒的に「親切」で「わかりやすい」のは言うまでもないことだと思いますし。ここはぜひ当時の技術にくわしい人に、ファミコンのハードウェアスクロールの限界について語って欲しいところです。

あと、縦横比や例の記事でもふれられていた解像度についてもう少し詳しく書くなら、ファミコンは解像度が256×240、これを縦横比 4 : 3 ブラウン管に横方向へ引きのばして表示していました。一方パソコンはPC88系で解像度が640×200、これをにじみがほとんど出ない専用ディスプレイに表示していました。ただし、縦1ピクセルに対して横2ピクセルで縦横がほぼ同じサイズになります。そのことを考慮して換算するとディスプレイの縦横比は 4 : 2.5 (320x200に相当する)です。

つまり当時のパソコンとくらべるとファミコンは画面が少し縦長で、「どれだけ細かい文字を表示できるか」についてもかなり差があった(全角文字で考えたときに表示できる文字の総量にはあまり差はないが、パソコンの方が高精細な表示ができた)ことになります。おそらく「表示能力に差はなかったけれども他のゲームにはない工夫をした」というよりも「表示能力に差があったから工夫せざるをえず、すでにあった方法の中から最適なものを選択してファミコンへと応用する工夫をした」というほうが実情に近いのではないかと思います。

※この移動の方式の話題を2017年の夏ごろから急にけっこう見かけるようになりました。話題にするなら、ぜひファミコンの技術的な限界についても、きちんと調べて情報提供して欲しいです。プロのライターさんが後追いで話題にするならなおさらですね。

マルチウインドウを使ったゲームに関する誤解

「ゲーム語りの基礎教養」の第2回目の記事にドラゴンクエストのマルチウィンドウのことが書かれていたので、それに対応する形で自分なりに「ハイドライドII」のマルチウインドウについて説明してみました。

ドラゴンクエストのマルチウインドウの活用方法が「発明」ではなかったことは、わかってもらえたのではないかなと思います。

もちろん、件の記事の著者も「マルチウィンドウは「画面から文字を追い出す」発明」という見出しはつけていても、ドラゴンクエストの開発者たちによる発明だとはどこにも一言も書いていません。ネット上にはドラゴンクエストが最初にこの手法を考案したかのように書かれたページもありますが、それが間違いだということは、覚えておいても損はないと思います。

その後いろいろ調べてみたところ、どうやら、「ドラゴンクエストへの道」という漫画の中に、マルチウインドウについて「当時はビジネス用のパソコンに多少使われているだけだった」と記述されている箇所があるようです。そこから「ドラクエの前にはマルチウインドウを採用したゲームはなかった」とか「当時はビジネス用のソフトにしか使われていなかった」という間違いが広がったような気がします。

「当時のコンピュータゲームでは、ゲーム専用機ではない、ビジネス用のパソコン上で遊ぶRPGに多少使われているだけだった」ときちんと書かなかったために生じた誤解なのかもしれません。

これ以上、間違いを広げてしまうことがないように、注意をしていただければと思います。

当時のハイドライドIIの広告について下記に文章を書きました。。


BGM

例の記事の話からすると脱線になりますが、1985年の年末におきたRPGの新発売ラッシュの中で、もうひとつふれておきたい話があります。「ハイドライドII」と「夢幻の心臓II」のPC88版には両方に共通する大きな欠点がありました。それがBGMです。この2つのゲームでは、プレイ中の大半は効果音のみしかならず、BGMがありませんでした。

ではBGMで話題になったゲームはなかったのでしょうか?そんなことはありません。「ザナドゥ」(日本ファルコム)では、フィールド画面やボス戦などでFM音源を利用したオリジナルのBGMが使われていました。戦闘開始と終了のタイミングで独特なメロディーが流れ、効果音も小気味いいものでした。さらに、戦闘になるとBGMのテンポが変わったり、食糧が足りなくなると音程がゆがんだBGMに変化するなど、演出としてもBGMは使われていました。日本ファイルコムのゲームミュージックがその後注目を集めるのはみなさんがご存じのとおりです。


おわりに

今回、「ゲーム語りの基礎教養」の記事をきっかけにしていろいろと調べてみて思ったことがあります。ドラゴンクエストは、「夢幻の心臓II」の充実した内容を「ハイドライドII」の使いやすいインタフェースで遊べるようにして、それを徹底的に低年齢層やRPGの初心者向けにアレンジしたうえでファミコンに実装する、そんな試みだったんじゃないかな、という考えです。

当時パソコンゲームを楽しんでいた自分には、ドラゴンクエストはいきなりおきた「革命」というよりも、それまでの国産RPGの歴史の延長線上にある「発展」と考えたほうがしっくりときます(もう少していねいに書くなら、ファミコンゲームの世界では「革命」と言えるのかもしれませんが、日本のコンピュータRPGの歴史としては、中学生くらいまで広がっていた間口をさらに小学生まで広げ、パソコンからゲーム専用機へと広げる「発展」あるいは「進化」だったのだろうと思います)。

「ハイドライドII」を作ったT&Eソフトは、今から見ると、とても職人気質が強くて新しいことに挑戦し続けている印象の強いメーカーだったように思います。ゲームとしてはちょっと難があるものも多いんですが、例えば、まだ描画速度が遅い時期に3Dゴルフシミュレーションを作ったり、惑星メフィウスではいちはやく分業体制での開発を行ってオープニングでスタッフロールを表示したり、名詞をキーボードから入力する代わりにカーソルで画面を指す方法(今で言うポイントクリック式)を採用したりしていました。かなり後期のゲームですが、「ディーヴァ」では多機種間でのデータ交換なんてこともやっています。「ハイドライドII」も中盤あたりから理不尽な展開が増えるのでゲームとしては難があるのですが、メニューまわりのシステム部分はとても斬新で良くできていたのです。

一方、「夢幻の心臓II」を作ったクリスタルソフトは、RPGでさまざまな試みをしていたメーカーと言っていいと思います。ウィザードリーの戦闘システムとウルティマの移動システムとを組み合わせ、道や平原など現在いる場所の種類で敵の強さを変えるデザインなどを採用した初代「夢幻の心臓」、ブラックオニキスをさらにシンプルにして初心者でも最後まで遊べる雰囲気を持たせた「リザード」、ウィザードリーとウルティマの要素を「夢幻の心臓」とは逆に組み合わせてリアルタイム性を追加した「ファンタジアン」。それらの経験と試行錯誤と蓄積の上で完成させたのが「夢幻の心臓II」だったのだろうと思います。

ファミコン版のポートピア連続殺人事件が発売された1985年11月は、まさにパソコンゲームでRPGの新作発売ラッシュがおきた時期とかさなります。この時期に販売された「夢幻の心臓II」「ハイドライドII」「ザナドゥ」などは、まさにこの時点での国産RPGの最先端でした。雑誌などでもとても話題になっていたので、PCゲームに関心があるのにこれらの情報に全く触れなかったという人はかなり少ないだろうと思います。

ドラゴンクエストの開発はこのときからはじまったようですし、4か月で2本のゲームを作るほどの速度で開発する能力があったと記事にも書かれています。もしかしたら、これらの当時最先端の国産パソコンRPGの面白さを、ファミコンユーザーである子どもたちにも遊んでもらいたい、その楽しさを知ってもらいたい、もっと多くの人たちに広めたい、そんな思いでドラゴンクエストは作られたんじゃないか、そんな考えに至りました。あるいは、実際にはもっと消極的で「夢幻の心臓II」の手軽に楽しむには少しおしい部分を改善すればもっと面白くなるのに、という思いだったのかもしれません。まぁ、前者は自分の願望でしかなくて、実際は後者の方に近かったんじゃないかなと想像したりしてますが。

もちろん、実際どうだったのかはわかりません。ドラクエの開発陣がこれらのゲームを実際にプレイしたかどうか、あるいはこれらのゲームを紹介する雑誌記事などを読んでいたかどうか、プレイした人から話を聞いたかどうか、意図的に参考にしたのか無意識に影響されたのか、当事者だけでなく周囲の人たちの証言も含めて情報を集めでもしない限り、本当のことは明らかにはならないでしょう。

でも、さすがに、当時パソコンゲーム雑誌すら全く見ていなくて海外のゲームだけから全ての発想を得ていたなんてことはないと思いますし、逆に、国産ゲームの要素をお手軽にパクって手抜きして大儲けしてやろうとかしか考えていなかったなんてこともないと思います。そんな両極端な状況はありえないでしょう。どの程度の影響なのかについてはいろいろな立場があるとは思いますが、国内のパソコンRPGの影響も受けながら、ドラゴンクエストは開発されたのだと自分は思います

この文章から、ドラゴンクエスト以前の国産パソコンRPGにも素晴らしいものがたくさんあって、その延長線上に今のRPGの発展があるんだということを、ぜひ振り返ってみていただけたらと思います。そして、この文章を書くきっかけとなった「ゲーム語りの基礎教養」の著者の方にも感謝したいと思います。ありがとうございました。


おわりのおわりに

・・・ってことで、なんとなく綺麗な感じで文章を書き終えてみたわけですが、この文章、「編集」や「宣伝」の目で見ると、全然ダメな感じですね。画像は全然使っていませんし、文字に色をつけて強調したりもしていません。ブログとかに書いてるわけでもないので検索でも見つかりにくいでしょう。それはもちろんわかっているんですが、まぁ、自分はプロのライターでもなければゲーム史の研究者でもない、ただのゲーム好きのおっさんですから、そこはおおめに見てください。

自分は小学校低学年のときに父親がMZ-80Bというパソコンを買ってきてはじめてパソコンにふれました。アドベンチャーゲームが流行していた時代に小学校の高学年、上で書いたRPGブームが始まったころに中学生になった世代です(年齢がばれてしまいますが)。工場とかが多い地域の団地に住んでいて親がエンジニアの家庭が多かったせいか、パソコンが家にある友達が周囲にはけっこうたくさんいました。そのころはPC60系、FM-7系、MZ-80K、それからX1やMSXを持っている友達などもいて、いろいろなゲームで遊んでました。その後、中学校に入ってPC8801mkIIMRを買ったころにRPGブームがおきたので、この時期のゲームはとても印象に深く残っているのです。

ドラクエと夢幻の心臓IIの評価については、世代の違いも関係しているように思います。 自分よりも上の世代はおそらく初期の国産PCゲームと海外PCゲームの両方にふれていて「国産のPCゲームは遊びにくい」という印象を強くもった世代なんだろうと思います。自分は国産の遊びやすいPCゲームが出はじめた時期にちょうど中学生でしかもパソコンゲームを遊ぶことができていて、国産のゲーム(夢幻の心臓IIや地球戦士ライーザ)と海外のゲーム(ウルティマIIIやウイザードリー)とを比べたら、圧倒的に国産ゲームの方が遊びやすいという印象を持つことができた世代でした。自分よりもさらに下の世代は小学生のころにドラクエでRPGに初めてふれた世代で、ドラクエの対象年齢にちょうどマッチしていて、それとくらべたら「夢幻の心臓II」は難しすぎる印象だったのだろうと思います。(それにしても、ドラクエすげーって言ってる人も夢幻の心臓IIすげーって言ってる人も、リアルタイムでやった人は2016年現在ではみんな30代後半〜40代くらいのおっさんおばさんになってるんですよね…、みんな年とったもんですね)

ちなみに、自分が中学生のころに「夢幻の心臓II」をやったときは、かなり後半の魔神の世界にある塔のあたりまで独力で進めたんですが、そこでいきづまって一度クリアを断念しています。その後、しばらく経ってから攻略本で幽霊船なんてものがあるんだと知って、セーブデータを引っ張り出してきてクリアしました。ドラクエでも同じように攻略本を必要とした人がいたようなので、それをもって、みちびく仕組みが「ドラクエ」にはあって「夢幻の心臓II」にはなかったとは言えないでしょう。逆に、中学生でも攻略情報なしに終盤あたりまで進めて、外部からのヒントひとつでクリアできるということの実例のひとつと言えるかもしれません。

あと、実は、自分はファミコン実機ではドラクエをクリアしていません。友達の家にあったのですが、すでにPCゲームで遊んでいた自分には、会話のたびにコマンドを選択させるシステムなど、とにかく面倒な印象しかありませんでした。そのときは、パソコン版とは謎解きが異なるポートピアの方で友達と盛り上がってました。ドラクエそのものは、遊びやすくリメイクされたものでクリアしましたが、それはかなり後になってからです。もし夢幻の心臓IIよりドラクエの方が遊びやすいと思った人がいたら、難しいかもしれませんがぜひ実機で両方を遊んで比較してみて欲しいところです(リメイク品やエミュレータではなく)。「オートセーブ+バックアップ」と「死んでも城で復活+復活の呪文」の比較を差し引いたとしても、おそらく当時の自分の気持ちをわかってもらえるんじゃないかなと思います(難易度は夢幻の心臓IIの方が高いですが)。

それから、ファミコンのカセットなどと比べてパソコンは難しすぎてとても子どもには扱えなかったかのように言う人がいますが、もし中学生くらいの年齢も含めて「子ども」と言っているのなら、当時の中学生をあまりにも馬鹿にしすぎです。当時、自分の周囲の「家にパソコンがあった友達」はみんな普通にパソコンゲームを楽しんでいました。これが一部の話でないことは、当時のPCゲーム雑誌の読者投稿欄の年齢層を見ればわかると思います。ディスクなら入れ替えが必要なことはありますが基本的にはセットしてリセットボタンを押すだけですし、テープのロード&ランは少し難しいですが、それこそ子ども向けの解説本などが確かあったはずです。比較をしたら確かにファミコンよりは難しいかもしれませんが中学生にできない作業だとはとても思えません。昔の子どもでもゲームで遊べるとなったらみんないろいろやりかたを調べたし、それで一度やりかたがわかってしまえば、特に難しいことはなかったのです。

パクリかどうか、みたいな話については、自分は過去のゲームの蓄積の上に新しいゲームが作られるのは良くあることだと思っているので、特にそれでドラクエが問題だとは思いません。前例があるからと言って後発の工夫をなかったことにしたり、パクリだと言って頭から否定するのは当然良くないと思っています。夢幻の心臓IIの視覚のシステムにしても、ウルティマ3や4のシステムを半キャラ隠すように発展させたものですし、他にも参考にしたと思える部分がたくさんあります。

夢幻の心臓IIを作ったクリスタルソフトはその後ドラクエの方向性をまねしつつ世界観を世紀末風にした「クリムゾン」を作っていて、そのシリーズの2作目では主人公ごとにそれぞれの章を持つ画期的なストーリー展開を導入しています。その後、今度はまたエニックスの方がドラクエ4でこの方式を採用したのは皆さんがご存知の通りで、そうやってマネしマネされしながらゲームの文化が発展しているわけです。イースやジーザスが発売されたときにはそれに似たシステムのゲームがたくさん発売されましたが、その中にはサークやスナッチャーのような名作もありますし、ゲームの進化や発展とはそういうものだと自分は思っています。

ただし、先に前例があるのにそれをなかったことにしたり、価値の低いものとみなしたり、段階的に発展しているのに全部の成果を独り占めにするようなことも、もちろん問題だと思います。あるいは、類似点が多くて明らかに影響を受けているのに、いちから全部自分たちで考えたんだと強弁するような行為も良くないと思います(発想の根拠を全部きちんと説明できるなら別かもしれませんが)。ひどいものだと、前例を馬鹿にしたり勝ち負けで考えて負けたとあざ笑ったりする人もいるようですが、そういう行為は自分は醜悪だなとしか思いません(ちょっときつい言葉で申し訳ないですが)。幸い、ドラクエの開発者の方々(外野を除く)はあまりそういったことはしていないようですし、それでいいんじゃないかなと思っています。

ちなみに、「ドラクエは夢幻の心臓の丸パクリだ」という指摘もよく見かけます。確かに当時の他のRPGと比べて、夢幻の心臓シリーズとの類似点が多いのは事実だと思います。しかし、これまで示してきたように、ドラクエには他のゲームの要素もけっこう含まれていますし、「丸パクリ」はさすがに言いすぎでしょう。

もちろん、その逆に「ドラクエと夢幻の心臓シリーズは全くの別物」と似ている部分が全くなかったかのように言ったり、「ドラクエは当時のRPGにはないオリジナリティにあふれている」とか「それまで誰も思いつかなかった独自のアイデアを無数にとりいれている」などと言ったりするのも同様に言いすぎだろうと思います。

新しい要素もゼロではないですが、ドラクエは既存のRPGの要素をかなり多く含んでいるので、むしろオリジナリティなんてなくていいと割り切って、当時のPCゲームの良い所を取り入れまくってでも面白くしようとしたRPGと言えると思います。

※「ポートピア連続殺人事件」(ENIX, 1983) の最初のシーンの画像も「Wizard and the Princess」(On-Line systems/Sierra,1980) のオマージュに見えるわけですし、その傾向は強いと思います。

この種の言い合いの中で、「よく知らないのにネットの情報だけを見て「ドラクエは夢幻の心臓のパクリだ」と言っている」と指摘している場面もたまに見かけます。確かにそう思えるような間違った記述もあるようです。しかし、パクリじゃないと反論するために「当時のPCゲームは…」と言っている側の文章にも間違った記述がかなり多いです。難しいことだとは思いますが、事実を確認することが大切なんだろうと思います。

あと、ここ最近で気になっているのは、「○○が多かった」という事実がいつのまにか「○○しかなかった」という嘘に変わってしまっていることです。例えば、ドラクエ以前の昔の国産RPGに「難解なものや遊びにくいものが多かった」というのは事実ですが、そういうものしかなかったわけではありません。例えばリザードや上海や夢幻の心臓IIや地球戦士ライーザなどは、小学生には少し難しいかもしれませんが中高生くらいにとっては比較的遊びやすいゲームだったと言っていいと思います。それにもかかわらず一部では「難解なものや遊びにくいものしかなかった」と安易に断言されてしまっています。

あるいは、「オホーツクに消ゆ」の話にしても、それより前に「コマンド入力式が多かった」のは事実ですが、それがいつのまにか、それより前には「コマンド入力式しかなかった」という大嘘になって広がっています(十年くらい前なら確実にツッコミが入っていたと思うのですが…)。一般の人ならしかたないとは思いますが、せめてプロのライターさんたちにはもう少し表現に気を配って欲しいなと思います (…というか、正直に言うと『「オホーツクに消ゆ」が国産初のコマンド選択式AVGではないこと』などは調べればすぐにわかる事実だし、当時のPCゲーム経験者なら知ってて当然のあたりまえの話だと思っていたので、そうでない認識がここまで広がっていることに実はとても驚いています。前例があることを確認したうえで、ぜひ、これ以上、嘘や誤解を広めないでいただければと思います)。

最後になりますが、例の記事の第1回目の冒頭に「初代『ドラゴンクエスト』(エニックス・1986)はどうやって生まれたのか」という問いがあります。 答えを自分なりにまとめると、「ドラゴンクエストは、パソコンでRPGの大きなブームが起きていた1985年の年末に開発が始まったゲームで、その当時雑誌などで取り上げられていた国産RPGの最高峰といえる「ザナドゥ」「ハイドライドII」「夢幻の心臓II」のうち、内容が優れていた「夢幻の心臓II」と、インタフェースが優れていた「ハイドライドII」の良いところを組み合わせ、国内外の他のゲームの要素も多数つめ込み、パソコンゲームの主なプレイ層だった中高生以上だけでなく、ファミコンゲームのプレイ層である小学生やゲーム初心者でも遊びやすいようにファミコン向けに徹底的にアレンジをして完成させたゲーム」と説明することになると思います(最後なんで、ここだけ赤字にしてみました)


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ドラクエ以前のPCゲーム関連の文章一覧

更新履歴

2024/1/8 文章一覧へのリンクを冒頭に追加。ポートピア連続殺人事件とWizard and the Princess のスタート地点の画面に関するコメントを追加
2023/7/15 言葉探しが不要なコマンド入力式の事例としてPC8801版ミステリーハウスと聖なる剣の事例を追加。関連して書いた文章へのリンクを追加。冒頭に文章一覧へのリンクを追加。
2023/5/23 スパイ00.7を誌面で確認したので記事に反映。
2023/5/14 ベーマガ関連のコーナー名や書籍名に含まれる記号などのミスを修正。
2023/4/23 MZ-80B用テープ版「ミステリーハウス」が言葉探しを排除したゲームだったことを追記。英雄伝説サーガのレイアウトの話を追記。
2023/4/16 当時の雑誌などの文化について文章を書いたので、言葉探しの話題のところにそのページへのリンクを追加。一部を赤字で強調。更新履歴の2/26に書いた予定を実行。PC6001版オホーツクに消ゆのパッケージのジョイスティック関連のコメントを追記。
2023/3/7 はてなブックマークに関連してコメントを一時的に追加。この記述は後日更新履歴のほうへと移動する予定です。詳細を記載したページに気付きやすくするために、ドラクエ開発時に参考にできた要素についてのページへのリンクを追加。細かい誤字の修正。指摘していただいた方ありがとうございます。
2023/2/26 「アビス」シリーズの発売元を間違えていたので修正(誤:リバーヒル → 正:ハミングバード)。指摘してくれた方、ありがとうございます(更新履歴に記録したうえで、取り消し線の部分は後日見やすくするために削除する予定です。ご了承ください)
2022/6/18 夢幻の心臓IIで、ラスボスがなぜいきなり人間の世界を襲ってこないのかについて、マニュアルを読めば理由がわかるようになっていたことを追記。段落の構成の一部を見やすいように組み換えました。
2022/2/18 一部を赤字で強調。冒頭に文書に関する説明を追加。その他の表現上の修正など。
2022/2/6 初代「夢幻の心臓」を紹介するページへのリンクが不十分だったので、いくつかリンクを追加しました。
2021/11/21 初代「夢幻の心臓」を紹介する文章を書いたので、10/5に加えた文章を簡略化して、新たに書いた文章へのリンクをはる形に構成を変更しました。
2021/10/5 初代「夢幻の心臓」で採用されていたプレイヤーを導く仕組みについての文書を追加しました。
2021/9/26 初代「夢幻の心臓」についてあらためて調べたところ、当時としてはイベントがとても豊富で、軌道にのってからの難易度もとても遊びやすいものになっていたので、そのことがわかるように文章を加筆・修正しました。
2021/3/20 初代ドラクエを紹介する記事へのリンクを少しだけ目立たせました。
2021/2/20 今まで調べてきた知識を使って初代ドラクエの紹介をする文章を書いたので、そこへのリンクを追加。 その他、細かい修正など。
2020/11/8 当時のRPGを大人向けだったとは書かない方がいいということを明記。その他、細かい修正など。
2020/9/23 ドラゴンスレイヤーが9月発売だった可能性と、チャレアベのコマンドリストの話を追記。その他、細かい修正など。
2019/12/25 オホーツクに消ゆがクリア困難なゲームだったことの説明を追加。
2019/11/22 オホーツクに消ゆのハマりの仕組みについて、開発者が意図しないバグだった可能性に関する記述を削除しました(意図的に先へ進めなくした可能性があるメッセージがPC88版で表示されていたため)。
2019/10/10 サブ項目が増えたので、目次にもそれを反映。AVGの画面を指し示す方式の説明を追加。
2019/8/16 見出しを追加したり、段落を区切ったり、表現を一部修正したりして全体を読みやすくした。
2019/8/1 アドベンチャーゲームの話題の量が増えたので、節に分けて流れを整理。その他細かい修正など。
2019/6/12 別のページにAVGの誤解に関する情報を書いたので、そのページへのリンクを追加。その他細かい修正など。
2019/4/28 英雄伝説サーガの映像表現へのリンクを追加。
2019/4/13 当時のAVGについて書かれた記事の紹介を追加。
2019/3/13 個人的な意見を述べた部分の表現を一部修正して補足のコメントを追加。
2019/2/22 スマホで見てレイアウトが崩れないように外部リンクのはりかたを修正。表現などの細かい修正。
2018/8/7 レベルデザインについて少し勘違いと混同をしていたので、ポイボスの事例をメインにすえたうえで文章全体を修正しました。なお、レベルデザインの英語の本来の意味については次の記事を参照しています (レベルデザインの「レベル」って何だ?ボックス、メイズ、パーセクにマウンテン!? ゲームの「面」の呼びかたいろいろ
2018/5/29 HTMLの一部に問題があったので修正
2018/3/25 スタート地点の話の詳細を別のページへ移動。移動の方式の話にコメントを追加。
2018/3/10 夢幻の心臓IIのスタート地点のデザインの話を追加。その他細かい修正。
2018/1/8 目次を追加。文章の細かい修正など。
2017/12/22 ポートピア連続殺人事件のインタフェースの話題と英雄伝説サーガの映像表現の話題を追加。表現の細かい修正など。
2017/11/15 フキダシに関する話題を追加。表現の細かい修正。
2017/9/23 コマンド選択式の話に「英雄伝説サーガ」の内容を追加。
2017/5/3 他の文章を書くために調べていてわかった情報などを追加。表現の細かい修正。
2017/1/18 当時RPGが逆境ではないと分析されている方のページへのリンクを追加。表現の細かい修正。
2016/12/15 文章の一部修正と冒頭に要約へのリンクを追加。
2016/10/20 復活の仕方について、ウルティマIVを完全に見落としていたため、この部分の前半に大幅な加筆をおこない、それと関係する後半部分を修正しました。
2016/9/29 タイムトンネルのエンディングの話を追加。最後の1段落を追加。ネタバレの可能性があるという注意文を追加。本文の細かい修正。
2016/9/20 全体の文章の再検討と最後の締めの文章を追加。本文全体の細かい修正。
2016/9/15 シナリオの導入の話、コマンド選択方式の話、マルチウインドウの話、BGMの話を追加。
2016/9/12 夢幻の心臓について当時の視点で見たときの補足を追加、リザードの説明について正確になるよう修正、「上海」の補足説明を追加、その他、誤字や細かい表現の修正。
2016/9/11 夢幻の心臓の話とレベルデザインの話とセーブロードの話を追加
2016/9/9 国内のRPGが逆境にあったのかに関する記述を作成。公開。